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日本の庭 (室生 犀星)

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あそこにこそ、小さく貧しい庭であっても、日本の肌身がある。

庭は日本の身だしなみ

私は最近庭には木も石もいらないような気がし出した。垣根だけあればいい、垣根だけを見て、あとは土、あるいは飛石を見るか、苔を見るようにして木というものはできるだけすくなくまた石もできるだけ少なくしたいと考えるようになった。何

庭が夜の中に、襟を正して身づくろいしながら褥にはいるときは、その庭にあるものが一さいに融けあう美しい瞬間である。花も石も、木の幹も、みなそれぞれに見る人の心につながって来る。

庭を見るということもその日の時間がたいせつであって、朝早く見て美しい庭もあろうし、午後の斜陽の射すころに栄える庭もあろうから、その庭の主人にいつごろがいいかということを打合せする必要がある。

すくなくとも庭を手玉にとり、掌中に円めてみるような余裕が生じるまでは、人間として学ぶべきもののすべてを学んだ後でなければならぬような気がする。

庭をつくるような人は陶器とか織物とか絵画とか彫刻とかは勿論、料理や木地やお茶や香道のあらゆるつながりが、実にその抜路に待ちかまえていることに、注意せずにいられない。結局精神的にもそうだが、あらゆる人間の感覚するところの高さ、品の好さ、匂いの深さにまで達しる心の用意がいることになる。

純日本的な美しさの最も高いものは庭である






庭が日本の身だしなみなんて考えたことがなかったのですが、
今すごく日本的な庭が恋しいです。

外国の”ガーデン”もそりゃあキレイなのだけど、”派手”で括ってしまう感じで、ぼくの思考もそこで終わってしまいがちです。逆に日本のものは派手さよりも素朴というか「寂れ」を意識してしまうから、庭を見ながらより物事を考えることができるのでしょう。日本人にとって「寂び」がそれほどまでに心に響くものであるのはなんでなんでしょうね。

冬の庭 (室生 犀星)

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竹はすぐな心を表はしてゐるやうで陳腐であるが左う考へる方が、無理がないやうである。かれは寂しいが喜んでゐるやうな木である。絶えず愉快な表情の中に、流れるやうな寂しさをもつてゐる。そして雨とか雪とかになほ一層その奥の手をみがき出してゐるやうである。 梅に至つては匂ひであらう。

松のその風籟の音に秀でてゐるは言ふまでもないが、一群の清韻は遥に天に向つて何ものかを奏でてゐるやうである

わたくしはこのごろ松竹梅といふ三点樹を昔の人がさう言ひならしてゐる言葉に感心してゐる。松竹梅といふと古い言草であるが、松といひ竹といひ又梅といふは樹の中の三兄妹であつて、三樹交契のいみじさ美しさは喞々としてわたくしの心に何かを囁いてくるのだ。木の世界の王さまでなければならぬ。実際この三樹交契を以つて庭を作るとしたら最早何ものも要らない。昔から此の木々をもつてめでたいものの標本とした。その故深い意味が意味ばかりでなく、心までさう感じさせて来たのは恥かしながらわたくしに取つては最近のことである。


冬の庭木としては別に特別なものはないが、梅擬の実の朱いのが冬深く風荒んでくるころに、ぼろぼろ零れるのはいいものである。南天の騒々しさにくらべると仲々澄んだ感じである。これは零れ落ちるときが最もよい。

雪がきたらそのままによごさずに置くのである。雪に触つたところが一と処でもあれば、その睡り深い姿を掻き起す。寂寞が乱れてはならない。消える時もひとりで斑に美しく消えるにまかせるやうにする。手洗ひや、つくばひに張る氷も雪とともに厳格以上の厳格さをもつてゐる。冬の庭の要を鏡のやうに磨き立てるものでなければならぬ

雪は冬の庭に永く眠つてゐるほど寂寞である。

冬は庭木の根元を見ると、静かな気もちを感じさせる

苔は苔のままむくみ上つてゐるところに、何とも言へぬ深い寂しみが蔵はれてゐて、踏んで見るとざつくりと土が沈む。乾いた灰ばんだ何処か蒼みのある土が耐らなく寂しい。

冬の庭の味ひの深いのは何といつても霜で荒れた土がむくみ出し、それが下ほど凍えて、上の方が灰のやうに乾いてゐる工合である。






冬の庭を見る目が今年は変わりそうです。
でも外国にいては、この感覚はなかなか味わえないのだろうなぁ。そこは素直に寂しいと思いました。

ザボンの実る木のもとに (室生 犀星)

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そなたたづねてすずめのお宿

ひとみは真珠

ふぢ子の容貌はきれいでよい瞳をもつた此れまで私のなじんだことのない尊い多くのものをもつてゐました。

「指きりつてなあに。」「約束をまちがへないつて証拠だよ。」

山の手あたりの日ぐれ時なぞに通りすがりに色白な女の童の、なにか知らひとりであそんでゐるのを見ます。非常に鮮かな美しさを感じます。それを生んだものがつくづく人間であることがふしぎに思はれます。 女の童については美しい菓子をたべるやうな心で眺められるのであります。

大きな新緑のかたまりのやうなあたらしさ





なぜか指きりという言葉がとても新鮮に聞こえたのでした。

そういえば、最近、といっても大人になって、指切りなんてしてないような気がします。
大人の世界でも口で約束するだけじゃなくて、指切りなんてしてみたらちょっとおもしろいんじゃないか、なんて思いました。
お互いの指と指が触れることで、約束を守るという意識が強化されるような。

どうもでもいいですね。
駄文でした。


性に眼覚める頃 (室生 犀星)

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「僕が君に力をかしてやるからね。二人分やってくれ。」「僕は一生懸命にやるよ。君の分もね。十年はやり通しに勉強する。」 私はつい昂奮して叫んだ。 二人は日暮れまでこんな話をしていた。間もなく私はこの友に暇を告げてそとへ出た。そとへ出て私は胸が迫って涙を感じた。秋も半ばすぎにこの友は死んだ。


かれは白いような、淋しい微笑を浮べた。それが自分の病気を嘲っているようにも、また私が彼の病気にかかわっていないことを冷笑しているようにも受けとれるのであった。深刻な、いやな微笑であった。

父の立てた茶は温和にしっとりした味いと湯加減の適度とをもって、いつも美しい緑のかぐわしさを湛えていた。それは父の優しい性格がそのまま味い沁みて匂うているようなものであった。


私はいつもあの「おくじ」一本によって人間の運命が決定される馬鹿馬鹿しさ

しずかな家の内部はいかにも彼女の温かい呼吸や、血色のよい桜色した皮膚に彩色せられたように、

彼女のこころよい皮膚の桜色した色合いがしっとりと今心にそそぎ込まれたような満足を感じた

なぜああいう美しい顔をして、ああいう汚いことをしなければならないか


寺へ来る人人は、よく父の道楽が、御燈明を上げることだなどと言っていた。それほど父は高価な菜種油を惜まなかった。父自身も、「お燈明は仏の御馳走だ。」と言っていた。


私は自分の室へかえると、自分の詩が自分の尊敬する雑誌に載ったという事実を今ははっきりと意識することができた。そして、あの雑誌を読む人人はみな私のものに注意しているに違いないと思った。

私は、雑誌をうけとると、すぐ胸がどきどきしだした。本屋から旅館の角をまがって、裏町へ出ると、私はいきなり目次をひろげて見た。いろいろな有名な詩人小説家の名前が一度にあたまへひびいてきて、たださえ慌てている私であるのに、殆んど没書という運命を予期していた私の詩が、それらの有名な詩人連に挟まれて、規律正しい真面目な四角な活字が、しっかりと自分の名前を刷り込んであるのを見たとき、私はかっとなった。血がみな頭へ上ったように、耳がやたらに熱くなるのであった。






「お燈明は仏の御馳走だ。」という言葉がとても新鮮だった。そう考えたことがなかったから。
人間ってさまざまなもの、お金だったり食べ物だったりを仏様にお供えするわけですが、燈明もその一部なのですね。
新しいモノの見方なのでした。

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Hiro

Author:Hiro
読んだ本の記録。忘れたくない言葉。

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