スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

自力更生より自然力更生へ (三沢 勝衛)

zirikikousei.jpg




「自分の辞書には不能という言葉はない」とまで言っておったと言い伝えられているそのナポレオンが、「あらゆる病気というものはわれわれ人間が素直に自然に順わなかった結果で、したがって一度病気にかかったならば、素直に自然に順っているに限る」といった意味のことを言い残しているということを聞きましたが、さすがのナポレオンも大自然には従順であったのか、もちろんそうあるべき、またなくてはならないわけであります。

「溺れた水は、また一面浮ばせる水でもあった」筈でございます。

雨も、雪も、風も、寒さも、さては、山も河も、なにも自然という自然に悪いものは一つもない筈であります。善悪はただ人間界だけの問題であります。


秋風の吹くようにならなければ、よい質の大根はできないといわれているその大根に対し、わがこの信州の持つ早冬的気候が手伝っているのでありまして、まことに信州のもつその風土性を織込んだ産業として美しい一つ

風土だけはまったく輸送不可能

昨今、著しく一般の注意をひくようになって参っておりますかの果物の方面にしましても、りんごや梨の栽培も決して悪いとは申しませんが、私は「くるみ」とか「くり」とかないしは「さねかずら」「しらくちづる」「またたび」等のいわゆる「山果」とも申すものの栽培に御注意を願ったらと考えているのでございます。

自然物はいかにも純であり正であります。神の姿そのままなのであります。軽視どころの話ではないと存じます。昨今御承知のように、いろいろの問題になっている産業組合の如きも、その純正なものを需要し供給するという点にその第一の本旨をおくべきものだ、と私は考えておりますが如何なものでございましょうか。

山は山として、すなわち「山地は山地として、そこには絶対的の価値を持っている」ということを私どもは忘れてはならないと存じます。とかく都市のものは人工物が多く、それに対して田舎のものには自然物が多い。したがって、都市のものには残念ながら紛れ物がよくある。


なるほど、いかに「たらの木の芽」だからといっても、一芽十銭も十五銭もしてはやや高過ぎると思いますが、しかし、とかく山の人たちは、今まで山を軽視しており過ぎた、山を馬鹿にしており過ぎた、「山へ行けばいくらでもあるんですから」とか、「たかが山のものですから」とか言って、いかにも山のものを粗末に考えており過ぎたではないでしょうか。

たまたまその料理の中へ、例のたらの芽が出た。わずかに二芽ばかりずつ、いかにも珍品らしくそれぞれ小皿に入れて配られた。なるほどおいしい。一同も非常に喜ばれたので、お代りを要求した。すると今度は少し大きな丼へ二〇芽ほど入れて持って来た。ところが会計の時に調べて見ると、その丼一つが参円についている。

氾濫の恩恵を受けているのは、ひとりエジプトのナイル河の流域だけだと思っておっては、はなはだ認識不足と申さなくてはならないのでございます。

また、かの善光寺地震の際の大崩落地として有名な、同じく更級郡更府村の湧池という部落でありますが、今もなおその地盤が安定しないので困っております。しかし、不思議にもこの地帯一帯は大豆の生育が素晴らしく良く、普通他所では二粒宛播いておりますあの大豆を、ここでは一粒ずつで、しかも見事に大きくもなり結実もよいのであります。どちらかといえば、大豆も湿性の作物でありますが、ここの土壌の深いということに恵まれており、しかもそれが、ここの崩壊地であるということに原因していることを想い合せますと、世の中には、ぜんぜん無駄なもの、無用なものというものはない、「つまらぬと言うは小さき知恵袋」という名句や、「無用とは利用せざることなり」と言われている警句が、よく胸に落ちるような気がいたすのでございます。

更級郡大岡村の下大岡という部落でありますが、ここは犀川の谷底近くにできているわずかに十数戸の部落でありながら、年々十車以上もの生柿を生産するという、素晴らしい柿栽培部落であります。しかも、よくある、かの隔年結果というようなことがここの部落のものにはほとんどないのであります。しからばその栽培方法はというと、別にこれというほどのこともなく、ただ年々その秋、柿の成熟期に、その枝の折れるのを防ぐために、弱い枝に支柱を立ててやるくらいが関の山だとのことでございます。よく調べて見ますと、この部落の中でもとくにその柿の成績のよい場所は、河畔の、時に氾濫時には水を被り、新しい土砂を次第に堆積されるような所と、それにいま一ヶ所、この部落の上方、そこの山腹に当る旧山崩れ跡が、そこの押出した土壌が深く、したがって柿の木の根張りも深く、それがとかく耐乾性の弱い例の柿のためには好都合で、年々豊作地となっているということが判ったのでございます。

これはきわめて各所で見ることでありますが、下伊那郡の南部地方や佐久・諏訪等では、そこの山麓にあたって切取って作られてある道路や畑地において、その春、霜溶けの際、その切取面の小さな崩壊を利用して、「うど」の軟化栽培をやっている処、またつい数日前、長野市外の善光寺温泉に参りましたところ、あそこの裏山の崖の下のその崩壊の砂の中にしかも自然にできるのだといって、あざみの軟化したのを料理して出して貰いました。

河の氾濫が堤防さえ高くすればそれで防ぎ得るとお考えになっておられる方、よしやそんなお方はございますまいが、万が一にもあるとすればよほどそのお方は頭の単純なお方と申さなければなりません。すなわち堤防を高くすれば河床が高くなり、河床が高くなれば、河水は必ずしもその堤防を乗越えては氾濫しないまでも、今度はその堤防の下を潜って両側の低地へ滲み出して、そこの地下水面を高め、やはりいわゆる氾濫同様の結果を招来いたします。


そうしてもし、こういった地形の処へ道路をあけるとしましたならば、それぞれその地形の幼・壮・老によって、そのあける場所がほぼ定まっているのであります。それは、幼年期の地形の場所では、道路はそこの尾根部に開かれるのが普通であります。もっとも尾根部といっても、幼年期の地形では谷はごく狭く、そこの谷底はほとんど全部河床となっており、両岸もまた絶壁に近いような急斜面であるのに、かえって尾根部には広い平坦面さえ持っているからであります。ところがそれが、壮年期の処ではその道路が谷底部に下り、老年期の処では中腹部に移るといったようになっております。それで、新道等を開鑿するような場合に、万一この条件に外れたような地点にその道路が設けられますと、開鑿後毎年のように修繕を要しまして、工費を喰って、非常な難儀をしなければならないことになるのであります。


私どもはその地形の発達程度によりまして、それを幼年期、壮年期、老年期の三つに分けております。

この「川に訊いて見てやる」という、その思想がまことに大切なのでございます。 ある山の麓に道路を作ろうとする場合、その道路の両側の勾配をどの程度にまで急にしてよいかは、その付近の地形を調べ、その地形のもつ勾配に順って、ならって、すなわち「聞いて」決めるべきであるということは、すでによく言われていることであります。

いやしくも川の工事をしようとするものは、まずそれをそこの川に訊き、山の工事をしようとするためにはそこの山に訊いて、その言葉に従ってするということが、いわゆる成功の捷径でありましょう。

それを、ちょっとアメリカかヨーロッパへ行って来るにさえ、三ヶ所も四ヶ所もで送別会を開いて貰わないことには容易に出発できないほどのわれわれ人間に比べては、まったく問題にならない。して見ますと、自然はまことに明らかな超人間的存在であります。

その直径が、わがこの地球の一〇九倍もあるあの太陽、またその太陽の直径の二〇〇倍、時には五〇〇倍もの直径を持っているものさえあると言われている天界の星辰、しかも、そういったわが太陽級の天体が、九〇の右へ零を二〇も付けた数、位があまり大き過ぎて、ちょっと位の名前さえ思い出せないほどの多数のものが、それがまた今度は九の右脇へ零を一〇もつけた光年半径、すなわち光の速さで通っても九〇〇億年もかかるほどの広い半径の中に散在してできているのがこの大宇宙でございます。

世間で「自然を征服した」といっているその事実をよくよく吟味して見ますなら、いずれも実はその自然の持っている「大法則にしたがっている」のであります。

私どもは、仮の宿とは承知しながらも、時にはその調べた「事実」に対しまして、「説明」を試みることがよくあります。しかし、事実と説明とを混合してはならないと存じます。説明はどこまでも、それは仮の宿りであります。即ち仮説であります。時に科学者の中には、その不安に耐え切れず、ついに、宗教へ転向とまではならなくとも、深い関心をお持ちになるようになられたお方も決して珍しくはありません。

実はまだまだ科学万能どころの話ではございません。きわめて初歩の時代であると考えるのが妥当とさえ考えたいのでございます。

御承知のように、まだアメーバ一匹人工では作られてはおりません。それどころか、その生命の本質究明をその使命とすべき生物科学者が、中には「生命は永遠の謎である」などといって、手を触れそうにもしない学者さえございます。

「努力に努力を重ねて行ったならば、やがては、その真相の把握もできるであろうと信じて、毎日研究を続けているのである」といっておられる科学者もございます。しかしそれは「信じて」の上のこと

かの科学に従事されている学者の方々が、しかも権威ある方々が、いや権威ある方々ほど、「調べれば調べるほどわからなくなる」といっておられます。





宇宙、って、どれくらい広いかといわれたら、両手を広げるぐらい、と言ってしまいますが、
実際に数字で表されるとすごくインパクトがありました。自分のちっぽけさ、というものがなんだかすんなり受け入れられたのでありました。

自然とうまく共存するべきが人間であったはずなのに、いつの間にか自然を壊すようになった人間はいつになったら自然に恩返しができるのでしょうね。そして、どうやって恩返しができるのでしょうか。考えさせられました。

スポンサーサイト

Pagination

Trackback

Trackback URL

http://forbookbloghiro.blog.fc2.com/tb.php/312-2b3a90ec

Comment

Post Your Comment

コメント:登録フォーム
公開設定

Utility

Profile

Hiro

Author:Hiro
読んだ本の記録。忘れたくない言葉。

Category

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。