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民芸とは何か (柳 宗悦)

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正しい労働はただ協団においてのみあり得るのであると。よき作は仕事への精進と、創造の自由とを切要します。単なる労働の苦痛から何の美が現れましょうや。

用い難いもの、用に堪えぬもの、それは器ではなく、器の資格はなく、器の意味がないのです。それ故器の美しさもありません。工藝においては用美一如です。

なぜ貴族的な品が多く病いに罹るのでしょうか。用を務めないからです。働き手ではないからです。それは多く床に据えられて働くことを厭っています。働くにしては余りに着飾り過ぎているのです。錯雑さがなぜ美を乏しくするか。それは働くに邪魔だからです。働かずば必然体は弱くなります。彼等はおおむね繊弱なのです。錯雑を去り華美を棄て、すべての無駄をはぶいて、なくてならぬもののみ残ったもの、それが民藝品の形であり色であり模様なのです。「なくてならぬもの」、これこそ美の基礎であると云えないでしょうか。

工藝の美を決定するものは、それがどれだけ美的に作られているかということではなく、それがどれだけ用途のために作られているかということであると。

今の人々はこぞって在銘のものを愛します。だがそれは「銘」を愛し、「人」を愛し、「極め」を愛しているのであって、美そのものを見つめているのではないのです。

普通であるということほど実際偉大なる場合はないのです。一般の人々は非凡なもののみ偉大であると思うほど平凡になっているのです。不思議にもそこには何の某という者がないのです。誰もがそれを作ったからです。

あの普通とか平凡とか蔑まれるその世界に、かえって美が宿されていることを物語ってくれるのです。

なぜ「下手」と云われるものに美が宿るか。普通の品たることにどうして美があるか、かかる美はいかなる社会を要求したか、いかなる経済を保障するか、その美がどんな関係を私達の生活に持ち来すか、なぜかつてできたのに今できないか、どうしたら未来にもできるか。これ等の疑問から大きな真理の展望が吾々の前に開かれてきます。

作る時代、用いる時代は過ぎて、今は省る時代へと移りました。すでに過去と現代とには、はなはだしい時間の間隔が生じたのです。私達は創作の時代を失うと共に、認識の時代へと入りました。

特に徳川期の半において、日本の民藝品はその絶頂に達したかの感があります。なぜその時代の茶人達がそれに冷かであったか。一つには見方が形式に捕われていたからですが、一つにはそれが当時のあまりに普通な品だったからです。盛に生産せられ、誰でも用いていたからです。あまり普通であり安ものであったから、人々はとりわけそこに美を見ようとはしなかったのです。花園に住むものはその香を忘れるに至ります。民衆は作るものが美しいことを知らずして作り、また美しいことを知らずして用いていました。

すべて美への認識は直観のことであって、「なぜ」という知的反省から美が認識されるのではないのです。その問いは何故恋人を恋するかという問いの愚かなのと同じなのです。「なぜ」というような二次的な理由で解されるものは、美への直接な知識とはなりません。直観においては観ることは思うことよりも先なのです。

今の歴史家には玉石に対する明確な区別がないのです。否、有名なものなら何でも讃辞を惜しまないのです。したがって上等の品物ならほとんど何でも美しいと書かれるのです。否、高貴な品と解されるもののみが歴史に入っているのです。

例えば「茶」に用いる鉢は何寸でなければならぬという如きは、あまりに不自由な考えです。それは茶室の大きさに準じて変えていいはずです。短くとも長くとも美しきものはこれを活かしたいのです。また活かす道が限りなく残っているのです。真の茶道は無限の形式と内容とに展開するものであっていいはずです。かかる自由さにこそ茶道の真の古格があると云えないでしょうか。

「型」とか「極め」とか「銘」とか、かかるものは美の本質的な標準とはなりません。それ等のものなくしても器の美に変異はないのです

「井戸」の茶碗を茶器だから褒めるのは、見方がまだ表面的です。私達はそれをかつて貧しい者が使った飯碗として一層讃えねばならないのです。「大名物」となるより前に、彼等は雑器であったのです。否、先にも云ったように民藝品であったからこそ「大名物」になり得たのです。

茶道の深さは清貧の深さなのです。茶器の美しさは雑器の美しさなのです。

風情には古格がよく残っています。だが今の料理にもう正格はありません。すでに都びて富者の客を待つばかりなのです。

私は新しい茶室によいのを見たことがありません。

「茶」の美は清貧の美なのです。今のように金に頼って数寄をこらす時、もう茶室は死んでしまいます。

茶室の美も云わば「下手」の美です。それは元来贅沢な建物ではなく、範を民家にとったのです。それも小さな貧しい粗末な室なのです。今も古格を保つ田舎家は美しい。あの納屋や、水肥小屋や、または井桁の小窓があけてある便所すらも、形が美しいではありませんか。私は特に朝鮮を旅する毎に、あの民家に茶室の美を見ない場合とてはないのです。あのきたないとか、むさくるしいとか、暗いとか、見すぼらしいとか云われる小さな田舎家こそ茶室の美の手本でした。

茶器も茶室も民器や民家の美を語っているのです。だがこの清貧は忘れられて、茶道は今や富貴の人々の玩びに移ったのです。茶器は今万金を要し、茶室は数寄をこらし、茶料理は珍味をととのえています。かくなった時すでに茶の道があるでしょうか、あり得るでしょうか。

私は民藝の美を最初に見つめた人として、初代の茶人達を偉大な先駆者と呼びたいのです。

あえて「初代の茶人達」と云います。私は紹鴎とか利休とかを指して云うのです。ややおくれては光悦の如き例外を多少は挙げ得るでしょう。

私は民器の美をはっきりと最初に見届けた人々が、日本人だということに、抑え得ぬ誇りと悦びとを感じます。彼等には工藝の美に対する真に稀有な直観と、卓越した鑑賞とがありました。

日本の陶工の中で、作からいって一番傑出している一人は穎川です。私は彼の赤絵の素敵な美しさに心を引かれます。個人陶であり在銘陶でありますから、必然上手物なのです。


正しい労働はただ協団においてのみあり得るのであると。よき作は仕事への精進と、創造の自由とを切要します。単なる労働の苦痛から何の美が現れましょうや。

用い難いもの、用に堪えぬもの、それは器ではなく、器の資格はなく、器の意味がないのです。それ故器の美しさもありません。工藝においては用美一如です。

なぜ貴族的な品が多く病いに罹るのでしょうか。用を務めないからです。働き手ではないからです。それは多く床に据えられて働くことを厭っています。働くにしては余りに着飾り過ぎているのです。錯雑さがなぜ美を乏しくするか。それは働くに邪魔だからです。働かずば必然体は弱くなります。彼等はおおむね繊弱なのです。錯雑を去り華美を棄て、すべての無駄をはぶいて、なくてならぬもののみ残ったもの、それが民藝品の形であり色であり模様なのです。「なくてならぬもの」、これこそ美の基礎であると云えないでしょうか。

工藝の美を決定するものは、それがどれだけ美的に作られているかということではなく、それがどれだけ用途のために作られているかということであると。

今の人々はこぞって在銘のものを愛します。だがそれは「銘」を愛し、「人」を愛し、「極め」を愛しているのであって、美そのものを見つめているのではないのです。

不思議にもそこには何の某という者がないのです。誰もがそれを作ったからです。

普通であるということほど実際偉大なる場合はないのです。一般の人々は非凡なもののみ偉大であると思うほど平凡になっているのです。

あの普通とか平凡とか蔑まれるその世界に、かえって美が宿されていることを物語ってくれるのです。









新しいモノの見方を与えてくれた本となりました。
工芸品には確かに普通さ、用途にこだわってこそ美に適合するのかと思いました。

また、「「茶」の美は清貧の美なのです。今のように金に頼って数寄をこらす時、もう茶室は死んでしまいます。」という文も印象に残りました。
今の茶室についてぼくはよく知らないのですが、それでもお金をかけてあるものはそれなりの見栄えが一般の目からは美しくみえるのでしょうね。

この本を読んだ後では、ちょっと違う角度から茶室や民芸について考えることができそうに感じました。

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Hiro

Author:Hiro
読んだ本の記録。忘れたくない言葉。

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