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福沢諭吉 ペンは剣よりも強し (高山 毅)

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慶応義塾のわかい学生たちは、ふるい十九世紀をおくり、あたらしい二十世紀をむかえるために、一九〇〇年十二月三十一日、にぎやかな会をひらきました。そのうちに夜はあけて、一月一日、年始のあいさつにきた人々に、諭吉はいいました。「いよいよ二十世紀だ。十九世紀の日本は、封建制度がつづき、これをなくするために、ずいぶん、ごたごたした世の中だった。けれども、日本はあたらしい世の中をむかえたのだ。ふるいことはみんなわすれさって、かくごをあらたにしてがんばろうではないか。」 諭吉の目はあかるくかがやき、希望にみちた顔は、とてもわかわかしくみえました。ですから、「福沢先生は、元気になられた。」と、だれもがあんしんをし、よろこんだのでした。 ところが、その一月もおわりにちかいころ、諭吉は、きゅうに病気でたおれました。脳出血が、ふたたびおこったのでした。そうして二月三日、とうとうその一生をおわりました。

諭吉は、くんしょうだの、しゃくい(きぞくのくらい)だのというものが、だいきらいでした。くんしょうをぶらさげていても、どうということはないとおもっていましたし、明治になって、やっと身分からかいほうされたのに、またまた、しゃくいをつくって、身分のくべつをつけるというのは、こっけいなことだとおもっていたからです。

子どもたちは自由でかっぱつであったほうがいい、と諭吉はかんがえていましたから、おくさんともよくはなしあったうえ、きるものはそまつにしても、えいようだけはじゅうぶんにとらせるように気をつけました。 ですから、家の中で、子どもがあばれまわっても、いっこうにしかりません。勉強よりも、からだをじょうぶにすることのほうがだいじだ、と諭吉はかんがえていたからです。そこで、子どもが、八、九さいになるまでは、おもうままにあばれさせて、からだをじょうぶにすることだけを、いちばんのもくひょうにしました。七、八さいになると、はじめて勉強をさせることにしましたが、もちろん、からだのことは、いつも気をつけました。

自分の考えどおりにものごとをおこなうのが、ほんとうに男らしい人間なんだ。

しっかりとひとりだちをして、自分をたっとぶという精神がない。これでは、日本はひらけない。

地位とか家がらとか、お金のあるなしで、さべつがつけられてはならないというのです。そうして、かりに、人間としてとうといとか、いやしいとかのくべつがあるとするならば、それは学問をしたか、しないかのちがいであるから、だれでも学問をするようにどりょくしようではないか、というのでした。 その学問というのは、ただむずかしい文字をおぼえたり、わかりにくいふるくさい文章をよんだり、和歌をよんだり、詩をつくったりするようなことではなく、「人間ふつう日用にちかき実学」だといいました。そうでない学問は、なぐさみの学問にすぎないというわけでした。

諭吉が本をかくのは、日本人の考えかたをあたらしくするのがもくてきでしたから、できるだけやさしい文章をかくようにどりょくしました。そうしてできあがった文章は、ばあやによんできかせて、わかるかどうかをたしかめてから、はっぴょうするというやりかたでした。 諭吉のかいた本はたくさんありますが、その中でゆうめいなのは、「西洋事情」「世界国尽」「学問のすすめ」などです。これらの本は、どれもやさしくていねいに、だれにでもわかるようにかかれていたので、ひっぱりだこで、人々によまれました。

諭吉は、慶応義塾であたらしい教育をし、「文部省は竹橋にあり、文部大臣は三田にいる。」と、せけんでいわれたほど

中津は、ふるさとでもあるし、しんるいやしっている人もおおいので、気をゆるしていました。ところが、この町でも、諭吉はねらわれていたのです。 諭吉のまたいとこに、増田宋太郎という青年がありました。十三、四さいばかり年が下で、家もちかく、朝ばん、にこにこしてやってくるので、諭吉は、「宋さん、宋さん。」とよんで、したしくつきあっていました。この宋さんが、じつは、諭吉のようすをさぐるためにやってきていたのでした。

諭吉は、三田に慶応義塾をうつしたとき、自分のすむ家もたてましたが、大工にたのんで、家のゆかをふつうよりたかくして、おし入れの中からゆか下へもぐってにげだせるようにしました。それは、そのころ、ふるい考えをもつ人が、西洋のあたらしい学問をしているゆうめいな人をころすことがはやっていたからです。慶応義塾をひらいた諭吉は、しだいにひょうばんのまとになってきたので、日ごろから、けいかいをしていたわけでした。

もしも、そのあたらしい政府が、外国をきらい、外国人をおいはらえといいだしたなら、どうなるでしょうか。外国と戦争をひきおこすようなことになり、よわくて小さい日本は、つよくて大きい外国に、うちまかされてしまうにちがいありません。

(国民のみんなが、世界のようすをよくしり、日本が、どんなに文明におくれているかがわかったならば、きっと、ゆうきをふるいおこして、あたらしく力づよい日本をつくろうと、どりょくするにちがいない。それには、国民が、もっとものしりにならなければならない。そうだ、国民を教育しなければだめだ。よし、わたしは、その教育者になろう。

いっしょに西洋の学問をまなんだ村田でさえ、このように外国人をおいはらえというありさまですから、いよいよ、自分のことばやおこないに気をつけて、このあらしの時代を生きていかなければならないと、かくごをしました。


日本ではあべこべに、外国人をおいはらえといううんどうがさかんになり、諭吉のように、外国の本をよみ、ヨーロッパがえりの人間だといえば、いつ、なにをされるかわからない、ぶっそうな世の中になっていました。
西洋の学問をしていた人々は、いつも、こんな思いをくりかえしていたのです。まことに、あぶない世の中でした。

薩摩(いまの鹿児島県)のとのさまの行列が、江戸をたって国へかえることになり、東海道の生麦村(いまは横浜市内)をとおっていたとき、横浜にきていたイギリス人がうまにのってやってきて、ばったりぶつかったのです。
そのころ、大名行列といえば、道ばたの家は雨戸をおろし、とおりかかったものは道をよけて、とおくから土の上にすわって、とのさまののったかごをおがまなければならないほどでした。そんなことをイギリス人はしりませんから、行列をよこぎろうとしたのです。それを、ぶれいものというので、きりころしてしまいました。

そのころの日本の国内では、外国人をおいはらえといううんどうがさかんで、外国人をただむやみにきったりきずつけたりするじけんが、いくつかおこった

諭吉は、西洋の本をたくさんよんでいたので、だいたいのようすはしっていたのですが、じっさいに目でみるのははじめてです。そうして、百聞は一見にしかず、ということわざのとおりだと、つくづくかんじました。 日本ではとても高価なじゅうたんが、部屋いっぱいにしきつめてあって、アメリカ人がその上をくつのまま、へいきであるいているのにもおどろきましたが、どの家にもガス灯がついていて、夜も昼のようにあかるいのを、うらやましくおもいました。また、いろいろのあつまりで、アメリカ人が、男と女と手をくんでダンスをやるのをみて、びっくりしました。

「でも、くよくよしていてもはじまらぬ。よし、こんどは英語の勉強をするんだ。」 諭吉は、そのつぎの日から、英語の勉強にとりかかりました。 とはいっても、いったい、どこで、だれに英語をおそわったらいいのか

五、六年もかかって、いっしょうけんめい勉強したオランダ語が、なんの役にもたたないことを、じっさいにしって、がっかりさせられた

夕食をすますと、すぐ一ねむりして、夜の十時ごろに目をさまし、それからずっと本をよみます。明けがた、台所のほうで朝食のしたくのはじまる音をきくと、もう一どねむり、朝食ができあがるころにおきて、すぐ朝ぶろにいき、かえって朝食をすますと、また本をよむといったありさまでした。

かたちやていさいだけにこだわる役所のやりかたをばかばかしく

江戸幕府は、それまで、およそ三百年ちかくのあいだ、外国とのつきあいをせず、品物のとりひきなどもしないことにしていました。ですから、世界の国々のようすは、なにもわかりませんし、また、どうなっているかをしろうともしませんでした。これを「鎖国」といいます。つまり、国をとじて、外国をしめだしてしまったわけでした。ただ、中国とオランダとだけは、長崎でぼうえきをすることがゆるされていました。 なぜ、幕府が国をとざしたかといいますと、それは、キリスト教が日本にはいってくるのをおそれたからでした。中国とはとなりどうしで、まえまえからのつきあいであり、キリスト教の国ではないから、そのままつきあったのですが、オランダとは、キリスト教を日本へひろめないというやくそくで、ぼうえきをしていました

この町をとびだして、すこしでも自由なところにいかなければ、一生、このままでおわってしまう、と諭吉はしみじみとかんがえるようになりました。

十五、六さいごろになると、諭吉は、ふるいおきてや、わるいならわしにたいして、まえよりもいっそう、ぎもんをもつようになりました。身分のちがいということは、子どもどうしの中にもあったからでした。第一に、ことばづかいがちがうのです。諭吉たち下っぱの家のものは、身分の上の家の子にむかっては、「あなたが、ああおっしゃった、こうなさった。」と、ていねいにいわなければならないのにたいして、あいては、「きさまは、ああいった、こうしろ。」といったちょうしです。

さむらいの家に生まれたものは、どんなにつまらない人間でもさむらいになり、いばることができました。町人やひゃくしょうの子どもは、いくらすぐれた人間でも、さむらいにはなれませんでした。また、さむらいの中でも、身分のたかいものと、ひくいものとにわけられていて、身分のひくいさむらいの子は、身分のたかいさむらいの子より上の役目につくということは、ゆるされませんでした。

これまで女こじきをいたわるお母さんを、ふうがわりなお母さんだとおもっていたのですが、人間は、わけへだてなくしんせつにしなければならないということがわかり、「お母さんはえらいな。」と、あらためてお母さんをそんけいしたくなりました。

兄さんは、わたしに勉強しろというんですか。いやなことだ。勉強なんて、わたしはだいきらいです。」「では、きくが、おまえは、これからさき、なんになるつもりだ。」「そうですね。まあ、日本一の大金持ちになって、おもうぞんぶんお金をつかってみたいものですね。」

諭吉は、このように、自分でなっとくのできないことについては、自分でじっさいにためしてみるという、しっかりした少年でした。おまけに手さきがきようなので、家ではたいへんちょうほうがられていました。

神さまのばちがあたるなどということは、ありはしないのだということを、諭吉ははっきりとしることができました。

福沢諭吉は、ながい封建制度にならされた人々を目ざめさせるのは、学問しかないと、けわしい教育者の道をえらびました。






自分の無知を恥じた上で言いますが、この本を読んで初めて福沢諭吉がとても偉大な人だということが分かりました。
今まで1万円札のちょっと怖そうな人、というイメージしかなかったのですが、読後はすごくカッコイイなと思いました。
もちろん彼の良い面ばかり書いているので、何とも言えませんが成し遂げたことは大きすぎるほど大きいもので、時代に負けず戦われた勇敢さはあっぱれ。
こういう人間に自分もなりたいものだと思いました。

良本。



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読んだ本の記録。忘れたくない言葉。

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