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百万人のそして唯一人の文学 (青野 季吉)

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作者のため、作者ひとりのためにあることは、いかなる意味でも読者を無視するものでなく、却つて形のない百万人のための文学であり、その百万人に形を与へる文学であることは、さきに述べた。「ツアラトゥストラ」の詩人は、「万人のための、そして何人のためでもない」書と云つた。
11ページ (76% 11/13) 0026/08/21 15:54:46 ■
文学はいかなる意味でも、読者のためにだけあるものでなく、何よりもまづ作者のためにあるもの

しかし当時の新聞と現代の新聞との相違は、マニュファクチュアーと大企業工場との相違より大きい。戦後となると、その相違はいつそう大きくなつた。昔の新聞には、まだどこかに個人が生きてゐた。主筆とか編輯長とかの趣味見識が息づいてゐた。漱石は池辺三山の知遇に感じたのだ。ところが現代の新聞では、こと新聞小説にかんする限り、もはや主筆も編輯長も存在しない。

「百万人の文学」にとつて、さらに重要なのは、先にもちよつと云つたやうに、即刻即座の反響である。これがなければ、どんな通俗小説も市場価値においては、紙屑同然である。現に、今日楽しんで読まれさへすれば、明日は屑籠に投込まれても本望だと揚言して憚らない作家がある。いい覚悟だといふほかはない。この覚悟に徹底するのでなければ、通俗小説に安住自足することはできない。

通俗小説とは、さうした常規があり、その常規をうまく使つて造られる文学である。

「百万人の文学」と云はれる。通俗小説の目ざすものは、まさにそれである。そのためには、世の常識道徳に叛逆してはならず、それから一歩すすんだものでなければならないとか、イデオロギー的の片よりがあつてはならず、つねに中間的、中庸的でなければならないとか、大衆の実生活から孤立せず、つねにそれと共に生きなければならないとか、ヒューマニティと愛を基調にしたものでなければならないとか、現代の流行通俗作家によつて、いろいろ定義や規準が示されてゐる。おそらくそれに間ちがひあるまい

純小説とは、さういふ自分とさういふ形なき読者とのインチメートな対話として以外には考へられない。

読者のために描かないといふことは、読者を無視してゐることでは絶対にない。自分の内部にある、自分と分ちがたい読者のためにかき、それ以外の読者のためにはかかないといふことに他ならない。

(純小説から通俗小説への)転身後のそんな空虚な自己に堪へられない作家は、たいてい沈黙してしまつたが、中には、自殺によつてその苦を脱れたものもある。芥川龍之介がその一人だ。――さういふ潔癖家には、通俗小説に転身して成功する才能がなかつたのも原因してゐると云はれる。

作家たちの仕事振りをみても、先づ純小説をかいて、文壇に認められることに努め、それがどうにか達せられると、予定の計画のやうな早さで、通俗小説へ転身する。さういふ打算的な作家が多くなつた

わたくしは唖然とした。 純小説は、文学青年の手習ひみたいなもので、通俗小説に到達する段階にすぎないと、この人達は合点してゐるらしい。








昔の新聞には、まだどこかに個人が生きてゐた。

という一文がすごく心に残った。
別に今の新聞が死んだものとは思わないけど、確かに人間、編集長やライターたちの意思みたいなものは
希薄なのかもしれないなぁ、なんて。

新聞を読む目が少し変わりそうです。







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Hiro

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読んだ本の記録。忘れたくない言葉。

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