スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

茶の本 (岡倉 天心)

tyanohon.jpg

恐ろしい本だと思った。









その式は終わった、客は涙をおさえかね、最後の訣別をして室を出て行く。彼に最も親密な者がただ一人、あとに残って最期を見届けてくれるようにと頼まれる。そこで利休は茶会の服を脱いで、だいじにたたんで畳の上におく、それでその時まで隠れていた清浄無垢な白い死に装束があらわれる。彼は短剣の輝く刀身を恍惚とながめて、次の絶唱を詠む。人生七十 力囲希咄 吾が這の宝剣 祖仏共に殺す(三七)笑みを顔にうかべながら、利休は冥土へ行ったのであった。

「不幸の人のくちびるによって不浄になった器は決して再び人間には使用させない。」


利休が自己犠牲をすることに定められた日に、彼はおもなる門人を最後の茶の湯に招いた。

人はおのれを美しくして始めて美に近づく権利が生まれるのであるから。

花をちぎる事によって、新たな形を生み出して世人の考えを高尚にする事ができるならば、そうしてもよいではないか。われわれが花に求むるところはただ美に対する奉納を共にせん事にあるのみ。われわれは「純潔」と「清楚」に身をささげる事によってその罪滅ぼしをしよう。こういうふうな論法で、茶人たちは生花の法を定めたのである。

われわれはいずれに向かっても「破壊」に面するのである。上に向かうも破壊、下に向かうも破壊、前にも破壊、後ろにも破壊。変化こそは唯一の永遠である。何ゆえに死を生のごとく喜び迎えないのであるか

蘭類が温室で、人工の熱によって息づまる思いをしながら、なつかしい南国の空を一目見たいとあてもなくあこがれているとだれが知っていよう。

何ゆえに花をそのふるさとから連れ出して、知らぬ他郷に咲かせようとするのであるか。それは小鳥を籠に閉じこめて、歌わせようとするのも同じではないか

諸君は、野生の花が年々少なくなってゆくのに気はつきませんか。それは彼らの中の賢人どもが、人がもっと人情のあるようになるまでこの世から去れと彼らに言ってきかせたのかもしれない。たぶん彼らは天へ移住してしまったのであろう。

悲しいかな! 翼ある唯一の花と知られているのは蝶であって、他の花は皆、破壊者に会ってはどうすることもできない。彼らが断末魔の苦しみに叫んだとても、その声はわれらの無情の耳へは決して達しない

西洋においては、花を飾るのは富を表わす一時的美観の一部、すなわちその場の思いつきであるように思われる。これらの花は皆その騒ぎの済んだあとはどこへ行くのであろう。しおれた花が無情にも糞土の上に捨てられているのを見るほど、世にも哀れなものはない。 どうして花はかくも美しく生まれて、しかもかくまで薄命なのであろう。

舞踏室や宴会の席を飾るために日々切り取られ、翌日は投げ捨てられる花の数はなかなか莫大なものに違いない。

世間で、人間は十で禽獣、二十で発狂、三十で失敗、四十で山師、五十で罪人といっている。

花なくてどうして生きて行かれよう。

花がなくては死んでも行けぬ。

喜びにも悲しみにも、花はわれらの不断の友である。

われわれはあまりに分類し過ぎて、あまりに楽しむことが少ない。いわゆる科学的方法の陳列のために、審美的方法を犠牲にしたことは、これまで多くの博物館の害毒であった。

彼らにとっては、作品の良否よりも美術家の名が重要である。

品を欲するのである。

実に遺憾にたえないことには、現今美術に対する表面的の熱狂は、真の感じに根拠をおいていない。われわれのこの民本主義の時代においては、人は自己の感情には無頓着に世間一般から最も良いと考えられている物を得ようとかしましく騒ぐ。高雅なものではなくて、高価なものを欲し、美しいものではなくて、流行

われらの個性さえも、ある意味においてわれわれの理解力に制限を設けるものである

「見えはる男には惚れられぬ。」というのがある。そのわけは、そういう男の心には、愛を注いで満たすべきすきまがないからである。芸術においてもこれと等しく、虚栄は芸術家公衆いずれにおいても同情心を害することはなはだしいものである。

現代人は、技術に没頭して、おのれの域を脱することはまれである。

美術家は通信を伝える道を心得ていなければならないように、観覧者は通信を受けるに適当な態度を養わなければならない。
無言のものに耳を傾け、見えないものを凝視する。

今日は工業主義のために真に風流を楽しむことは世界至るところますます困難になって行く。われわれは今までよりもいっそう茶室を必要とするのではなかろうか。

かつてそれを用いて食事をし今はなき人を思い出させるのであるか。 茶室は簡素にして俗を離れているから真に外界のわずらわしさを遠ざかった聖堂である。ただ茶室においてのみ人は落ち着いて美の崇拝に身をささげることができる。

この点においてもまた日本の室内装飾法は西洋の壁炉やその他の場所に物が均等に並べてある装飾法と異なっている。西洋の家ではわれわれから見れば無用の重複と思われるものにしばしば出くわすことがある。背後からその人の全身像がじっとこちらを見ている人と対談するのはつらいことである。肖像の人か、語っている人か、いずれが真のその人であろうかといぶかり、その一方はにせ物に違いないという妙な確信をいだいてくる。お祝いの饗宴に連なりながら食堂の壁に描かれたたくさんのものをつくづくながめて、ひそかに消化の傷害をおこしたことは幾度も幾度もある。何ゆえにこのような遊猟の獲物を描いたものや魚類果物の丹精こめた彫刻をおくのであるか。


室の装飾に用いる種々な物は色彩意匠の重複しないように選ばなければならぬ。生花があれば草花の絵は許されぬ。丸い釜を用いれば水さしは角張っていなければならぬ。

人物は見る人みずからの姿として現われているのであるから。実際われわれは往々あまりに自己をあらわし過ぎて困る、そしてわれわれは虚栄心があるにもかかわらず自愛さえも単調になりがちである。

真の美はただ「不完全」を心の中に完成する人によってのみ見いだされる。

装飾の単純、装飾法のしばしば変化するのになれている日本人の目には、絵画、彫刻、骨董品のおびただしい陳列で永久的に満たされている西洋の屋内は、単に俗な富を誇示しているに過ぎない感を与える。一個の傑作品でも絶えずながめて楽しむには多大の鑑賞力を要する。してみれば欧米の家庭にしばしば見るような色彩形状の混沌たる間に毎日毎日生きている人たちの風雅な心はさぞかし際限もなく深いものであろう。

人はいろいろな音楽を同時に聞くことはできぬ、美しいものの真の理解はただある中心点に注意を集中することによってのみできるのであるから。



伝統や型式に屈従することは、建築に個性の表われるのを妨げるものである。現在日本に見るような洋式建築の無分別な模倣を見てはただ涙を注ぐほかはない。われわれは不思議に思う、最も進歩的な西洋諸国の間に何ゆえに建築がかくも斬新を欠いているのか、かくも古くさい様式の反復に満ちているのか

また過去の創作物を無視せよというのではなくて、それをわれらの自覚の中に同化せよというのである。

芸術が充分に味わわれるためにはその同時代の生活に合っていなければならぬ。それは後世の要求を無視せよというのではなくて、現在をなおいっそう楽しむことを努むべきだというのである。

組み立て取りこわしの容易なわが国の木造建築のようなある建築様式

利休の求めたものは清潔のみではなくて美と自然とであった。

茶人に第一必要な条件の一は掃き、ふき清め、洗うことに関する知識である

日中でも室内の光線は和らげられている。傾斜した屋根のある低いひさしは日光を少ししか入れないから。天井から床に至るまですべての物が落ち着いた色合いである。客みずからも注意して目立たぬ着物を選んでいる。古めかしい和らかさがすべての物に行き渡っている。ただ清浄無垢な白い新しい茶筅と麻ふきんが著しい対比をなしているのを除いては、新しく得られたらしい物はすべて厳禁せられている。茶室や茶道具がいかに色あせて見えてもすべての物が全く清潔である

それにその建築に用いられている材料は、清貧を思わせるようにできている。しかしこれはすべて深遠な芸術的思慮の結果であって、細部に至るまで、立派な宮殿寺院を建てるに費やす以上の周到な注意をもって細工が施されているということを忘れてはならない。

茶室は見たところなんの印象も与えない。それは日本のいちばん狭い家よりも狭い。

始めて独立した茶室を建てたのは千宗易、すなわち後に利休という名で普通に知られている大宗匠で、彼は十六世紀太閤秀吉の愛顧をこうむり、茶の湯の儀式を定めてこれを完成の域に達せしめた

西洋とは全く趣を異にする茶室の微妙な美しさ、その建築の原理および装飾が門外漢に充分にわかろうとはまず予期できないことである

真理は反対なものを会得することによってのみ達せられる。

虚は美的感情の極致までも入って満たせとばかりに人を待っている。

何物かを表わさずにおくところに、見る者はその考えを完成する機会を与えられる。

今や茶は生の術に関する宗教である。茶は純粋と都雅を崇拝すること、すなわち主客協力して、このおりにこの浮世の姿から無上の幸福を作り出す神聖な儀式を行なう口実となった。







利休さんも凄まじくすごいのだけど、著者も同じくらいすごいです。
何がすごいかというと、僕的には人間の真理を的確に抑えているところです。
こんな方と日本語でぜひお話してみたいな、と思います。


内容で一番面白かった部分は、茶室の微妙な美しさと、西洋の建物との対比。
たしかに外国の家って見栄えがするのだけど、茶室にあるような無駄のない余白のある美しさみたいなものがないな、と
思いました。だから、なんだかこれを読んだとき、「日本人で良かった。」なんて思ったりしました。
そして、大人になった今、もう一度ちゃんと茶室というものをこの目で理解したいなぁと思いました。



お茶についての本のはずが、立派な哲学書になっているので、びっくりでした。
ぜひたくさんの人に読んでほしい一冊。


スポンサーサイト

Pagination

Trackback

Trackback URL

http://forbookbloghiro.blog.fc2.com/tb.php/207-cdbffd73

Comment

Post Your Comment

コメント:登録フォーム
公開設定

Utility

Profile

Hiro

Author:Hiro
読んだ本の記録。忘れたくない言葉。

Category

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。