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不思議な国の話 (室生 犀星)

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山の色は、うすい藍色のときもあり、鼠色だったり、あるいは一面に牛乳色をした靄の中から紫の頭をあらわしたり、ほんの雲の間にちょいと聳えてみえたりしていました。それを見るごとに、私はちょうど眩惑のするようなすうとした気もちで、その山の奥の方にある池のことを倦きることなく考え込んでいるのでした。

温かい白い雲がちぎれちぎれになって、山の頂へ、ふうわりと懸りました。まるで小さい帽子のように、ふしぎなまだ私の見たことのない国の上の秘密をつつむように、いく片となく浮きよせてきました。

私は、春になると何より杏の花の匂いをかぐのが楽しみです。

それほど話上手な姉のことゆえ、手で真似をして見せたり、美しい眉をしかめたり、または、わざとその大きい黒い瞳をいっぱい開いたりするのです。

私はすぐ山の上にある、空ばかり映っていて、すこしも濁ってない青い水底を考えました

山という不思議な、まだ私たちの見たことのない国

春は、いつの間にか紫ぐんだ優しい色でつつまれ、斑ら牛のように、残雪をところどころに染め、そしていつまでも静かに聳えているのです。





山への想いを綴っているのですが、確かに言われてみると山っていつも同じように見えるのですが、実はさまざまな変化がある不思議の国なのかもしれないと思ったのでありました。

山を見る目が少し変わりそうです。

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文化村を襲つた子ども (槙本 楠郎)

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二人とも大人のやうにタバコでも吹かして見たいやうな気持でした。

町全体がパツとオレンヂ色の秋陽を浴びて浮び上つたやうに輝いてゐるのです。

みんな「文化村」といふお金持ばかりの村を早く見たくて堪らないのです。そこにはどんな子供が居り、またどんな木や草や花や果がなつてゐることだらう? ひよつとすると動物園や公園なんかもあるかも知れない

空には赤い靴のやうな雲が飛んでゐました。

それに、あの村はとてもキレイなんだぞ。とてもキレイなんだから!

「なんだ意気地なし! 弱虫はブルジヨアだぞツ!」

秋の陽はキンキラと照つてゐます。






貧乏な子どもたちが文化村と呼ばれるお金持ちが集まる村を見に行く物語。
自分の見たことがないものを見にいくときの気持ちのキラキラ感、忘れたくないものだなぁ、と思いました。
そういう気持ちってやっぱり子どもの頃が一番大きいような気がしないでもないのですが、
大人となった今でも、新しいものを追いかけるときの純な気持ちを大切にしたいと思うのでした。

茸の香 (薄田 泣菫)

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香気にしてからが然うで、石花菜を食べるのは、海の匂を味はひ、香魚を食べるのは淡水の匂を味はふので、今恁うして茸を食べるのは、軈てまた山の匂を味はふのである。山も此頃のは、下湿りのした冷たい土の香である。

茸を噛むと秋の香が齦に沁むやうな気持がする。味覚の発達した今の人の物を喰べるのは、其の持前の味以外に色を食べ香気を食べまた趣致を食べるので、早い談話が蔓茘枝を嗜くといふ人はあくどい其色をも食べるので。海鼠を好むといふ人は、俗離れのした其の趣をも食べるのである。

吸物の蓋を取ると走りの松蕈で、芳ばしい匂がぷんと鼻に応へる。給持の役僧は『如何だ』といつた風に眼で笑つて、





日本の祖父母の住む山の匂いを思い出せる一冊でした。
雨で濡れた山のしんなりとした空気の安心感。
すごく懐かしいと思いました。


酒 (薄田 泣菫)

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法律の箇条書で一杯詰つてゐる筈の頭は、案外空つぽだつたと見えて、缶詰の空殻を投げたやうに、かんと音がした。

酔つ払がよくするやうにKは丁寧に帽子を取つてお辞儀





頭のとてもよい人がお酒によって馬鹿を見て死ぬという短話。
お酒の気持ちよさと、自制心の大切さをユーモラスに教えてくれました。

飲酒家 (薄田 泣菫)

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禁酒論者へ報告する。まんざら捨てたものではない。酒飲みからも、国幸医学士のやうなかうした孝行者も出る世の中だ。

酒さへあれば、天国などは質に入れても可い

自分は肉体と精神と孰方を愛するかといへば、言ふ迄もなく精神を愛するから酒は止められないと口癖のやうに言つてゐた。






天国を質に入れる、っていう表現がすごくおもしろかったです。

にんじん (ルナール ジュール)

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あのすばやい耳

眼の中に、火の塊りができたように

あの子は、頭の中で何か考えてると、お尻のほうは、お留守ですよ。

怠け者の兄貴、フェリックスは、辛うじて学校を卒業した。 彼は、のうのうとし、ほっとする。

そして、街で紙片を拾うように、彼の心臓をつかむ。 揉む。皺くちゃにする。丸める。握り潰す。 やがて、にんじんは、これが自分の心臓かと思う。わずかに、飴玉の大きさだ。

彼の干からびた眼が、涙でいっぱいになる。

感動の最初の火花

狡そうな灰色の眼

蚯蚓はきたなかない。蚯蚓は世の中で一番きれいなもんだ。奴あ、土を食って生きてる。だから、潰してみろ、土を吐き出すだけだ。わしだったら、食ってみせる。

両方とも、眠れない。にんじんは、寝返りを打つ。息がつまる。空気を捜す。

ある時は、葡萄蔓の束の上で寝ころび、空を見上げて柳の芽を吸うのである。

もう、ダニは仕事にかかり、皮膚を襲い出した。にんじんは指にちくちくと痛みを感じた。霙が降っているようだ。

余計な糞人情

猫は、からだを顫わし、生きていることを示す

やがて、彼の夢想は、砂を混えたか細い流れのように、勾配がなくなると、水溜りの形で、止まり、そして澱む。

心持は夜のように暗い。

腹がパンくずのような白さ

近視の、小さな狡そうな眼

羽根布団のぬくもりの下とか。

掛布団の下の暗闇の中

僕の愛情は純の純なるものだ

彼は、マルソオの朱色の頬を、いやというほど引っ掻きむしり、蜜柑のように皮をひんむいてやりたいほどだ

薔薇色の鼻先からライラック色の耳

清水の中へ葡萄酒をたらしたようにぱっと拡がる

彼は子供らしい物語に自ら興じ、ざっくばらんな打明け話や、いわゆる「心の想い出」というやつで、相手の眼を冴え返らしてしまう。やがて、相手の顔は、ほのかに、透き通るほど色づきはじめる。内側から照らされたようだ。

「またおいで。今のお金をおっことさないようにね。今度の日曜だよ、お天気がよかったら。それから、お前さんがまだこの世にいたらね。まったく、お前さんのいうとおりさ。誰が死んで誰が生きてるかわかるもんじゃない。誰でも苦労っていうものはあるし、神さまはみんなのものだからね!」

血管の中を、氷の塊りが、溶けながらぐるぐる廻っていた

誰もしゃべらない。「この人たちは一体どうしたんだろう」 アガアトは、そう思っている。 彼らはどうもしないのである。そういうふうなのだ。ただそれだけである。

彼女はしずしずと歩くなんていうことがほとんどできないのである。頬ぺたを真赤にし、呼吸をきらしているほうがいいらしい。

乞食っていうものは、あたしたちより仕合せなんだよ。

自分だけのために歌を唱う

ポマードで無理に寝かせつけられて、一時は死んだ真似をしているが、やがて、むくむくと起き上がる。どこがどう押されてか、てかてかの軽い鋳型に、ところどころ凸凹ができ、亀裂がはいり、ぱくりと口をあくのである。 藁葺尾根の氷が解けるようだ。 すると、間もなく、髪の毛の最初のひと束が、ぴんと空中に跳ね上がる、まっすぐに、自由に

にんじんの髪の毛なら、セメントでなくちゃだめだけど、あんたのなら、ポマードもいらないくらいだわ。ひとりで縮れて、ふっくらしてるわ。あんたの頭は、花キャベツみたいよ。この分けたとこだって、晩までそのまま持つわよ」

もしもルピック夫人が、息子や娘の前で、人間の屑みたいに取り扱われながら、すぐに食卓を離れずにいたら、それこそ彼は、屁でもしてやりたかったのだ。

にんじんはどうかというと、ぴりっとも身動きをせず、唇を壁土のように固くさせ、耳の奥がごろごろ鳴り、頬ぺたを焼林檎で膨らませながら、じっとしている。

「馬鹿おいい」と、彼女は、お愛想に喉を鳴らし、靴拭いを尻尾で叩いているピラムに向かっていうのである――「お前にはわからないんだよ、この家を持って行くのに、あたしがどんなに苦労してるか……。お前も、男の人たちみたいに、台所で使うものは、みんなただで手にはいると思ってるんだろう。バタが高くなろうと、卵が法外な値になろうと、そんなことはいっこう平気なんだろう

老人の皮膚にもりあがる血管のように

兎どもにはメロンの種をやり、自分は汁を飲む。それは、葡萄液のように甘い。

好き嫌いは、こうやって、人が勝手に決めてくれる。大体において、母親が好きなものだけを好きとしておかなければならない。

絶対の幸福に浸りながら

にんじんは、その時まず、一人でいることの快楽を味わうのだ。彼は暗闇の中でいろんなことを考えるのが好きである。

雨が窓ガラスを叩き、風が星を消してしまい、胡桃の木が牧場の中で暴れている

ちっとずうずうしい量見だ!

頑としていうことをきかない犬に業を煮やす。

ルピック一家はかんかんに怒る。

鷓鴣は痙攣したように、もがく。翼をばたばたさせる。羽根を飛ばす。金輪際くたばりそうにもない。彼は、友達の一人ぐらい、もっと楽に、それこそ片手で締め殺せるだろうに。――今度は両膝の間に挾んで、しっかり押え、赤くなったり、白くなったり、汗までかいて、なおも締めつづける。顔は、なんにも見ないように上を向いているのである。 鷓鴣は、頑強だ。

手にも、足にも、羽根が生えたように。

にんじん、お前いって鶏小舎を閉めておいで」 彼女は、こういう愛称で末っ子を呼んでいた。というのは、髪の毛が赤く、顔じゅうに雀斑があるからである。





名作のひとつだとも知らずに読んだ本なのですが、けっこうおもしろかったです。
家族にどれだけ馬鹿にされて苛められても、どこか冷めている主人公にんじん君はぼくからするとちょっと怖かった。
この小説の雰囲気はどこか乾いていて、現実感を感じない。そこがよかったです。
ハリーポッターが人間の家族(?)に苛められているシーンを読んでいて思い出しました。

庭をつくる人 (室生 犀星)

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好みは人間をつくるもの

寂しさにすぐれた人間の心もつき詰めてゆくと、石庭の精神でなければならぬ。わたくしは重い曇天の下で、蹲まり睨み合い、穏かにも優しいかれらの姿を一瞥したとき、すぐ或る種類の人々の心を覗き見た感じをもった。

水をやらない癖にして置けばそのまま苔になるのである。苔は肌のこまかいほどよいとしてあるが、山苔日苔の肌の荒いのは一層の荘重を感じさせるものである。総じて庭は石と苔との値が深ければよい

苔は日苔といい打水をしないでも蒼々としているのをわたくしは一番に好んでいる。山にある苔である。暑い日には乾いたままで蒼く、へいぜいは水をやらないで折々の雨を待つか或は一週一回ぐらいの水でよい。がっしりした苔である。大庭などはこの苔の方がよい。

飛石は丁々と畳んで行くいきで、庭の呼吸をつがせるようなものである。これの打ち方で庭ぬしの頭のほどが窺い知られるものである。飛石は何処まで打って行っても止まることを知らず、もう一枚、もう一枚というふうに先きを急ぐものであるから、止めをよほど抉り利かして置かなければならぬ。わたくしは飛石は庭を鎧うているものであることを熟々感じている。

石は二ツ接、三ツ組、五ツ組とか言い秘伝のようなものがあるそうであるが、わたくしは勝手に組めばいいと思っている。しかし物には釣合というものがある。その釣合以上の何ものかがわたくしたちを打ってくれればいいのである。一つ置いた石が物足りなさそうにしている態が見え、友ほしそうである。或いは寂寞に耐えない風姿をしている。それを見抜いてやることも我々の心である。何かかれらにも感情があり、一つきりで立てないときにはも一つ石を接ぐのもいいだろう。

石は庭ぬしの悲しい時は悲しそうな表情をして見せ、機嫌よいときはかれも闊達で快然としていた。

或いは夜来の雨じめりでぬれたのが、空明りを慕うているさまは恋のように仄かなものである。それが飛石であるときは踏みかねる心をもつ。朝の間は石の心も静まっていると見えるからである。

石は絶えず濡れざるべからずというのは、春早いころがその鋭さを余計に感じる時であるからであろう。水の溜まる石、溜まるほどもない微かな中くぼみのある石、そして打水でぬれた石は野卑でなまなましく、朝の旭のとどかぬ間の石の面の落着きの深さは譬えようもなく奥ゆかしい。

石が寂しい姿と色とを持っているから人間は好きになれるのだが、反対のものであったら誰も石好きにならないであろう。その底を掻きさぐって見たら石というものは飽かないものであるからである。さびは深く心は静かである。

わたくしは世に石ほど憂鬱なものはないと思うている。ああいう寂しいものを何故人間は愛で慕うのであるか。

程よい見馴染の快いものでなければならぬ。

つくばいの品格は最も秀れたものでなければならず、形は大きくも小さくもない、

兼六園の池のきわの手洗いは大石であるが、三抱えくらいの椎の大樹の根元にしっかりと置かれ、雄心を遣るに豪邁であった。わたくしはまだこれほどの大樹の根元に置かれた手洗いを見たことはない。

主としてつくばいは朝日のかげを早くに映すような位置で、決して午後や夕日を受けない方を調法とする。水は朝一度汲みかえ、すれすれに一杯に入れ、石全体を濡らすことは勿論である。その上、青く苔が訪れていなければならぬが、一塵を浮べず清くして置かなければならぬ。口嗽ぎ手を浄めるからである。

わたくしは蹲跼(石手洗い)というものを愛している。形のよい自然石に蜜柑型の底ひろがりの月がたの穴をうがった、茶人の愛する手洗石である。庭のすみに置くか、中潜りの枯木戸の近くに在るものだが、此のつくばいの位置は難しくも言われ、事実、まったくその位置次第で庭相が表われやすい

つくばい(手洗鉢)の水だけでもよいのである。乾いた庭へ這入ると息づまりがしてならぬ。わたくしたちが庭にそこばくの水を眺めることは、お茶を飲むと一しょの気持である。

水というものは生きているもので、どういう庭でも水のないところは息ぐるしい。庭にはすくなくとも一ところに水がほしい。






水が生きている、とは新しいモノの見方でした。

それにしても、日本の庭ってこんなにルールというか、深く掘り下げれば掘り下げるほどおもしろいんですね。
今まで単純にきれいだなぁ、なんて見てきたものが、こんなにもこと細かく計算されたものだなんて思いもしませんでした。

でも、庭が趣味とはいいものなんでしょうね、きっと。
あこがれます。

職業婦人気質 (吉行 エイスケ)

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――おしゃれかい。――そうよ、口紅ぐらいつけなくちゃネオン・サインにたいしてすまないわ。

いままでソファの底に沈んで、情婦のつくってくれたあたたかいラム・パンチをのんでいた田村英介

赤い梯子を登った






普段言わないような妖艶な台詞がびゅんびゅん飛び交う著者の作風は非常におもろいのですが、
ぼくには非常に読みづらくもあったり。

「口紅をつけないと、ネオンサインにすまない。」なんて、生きているうちに一回は言ってみたいですね。男ですが。
この台詞、かっこよすぎました。

生きている戦死者 (牧 逸馬)

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打ちのめされた良人として、死人のような日を送っている




久々にミステリー的なものを読んだのですが、久々なのか新鮮でおもしろかったです。
でもやっぱりミステリーものって、あんまりグッと来る表現なんかがないのが残念なのでした。

女百貨店 (吉行 エイスケ)

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新しい恋愛教科書によった独立の精神をもった彼女たち

影を失った、老いた男

馬の脚のような涙

サラリーメンの洪水のために死骸のような建物の堰が破られて、空にそびえる高楼の窓が花のようにひらくと

するとわしはドイツの軍艦のようなあんたのからだを思う

空はリキュール酒のようなあまさで、夜の街を覆う







大阪万華鏡 (吉行 エイスケ)

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ココア色の女の皮膚

男性を象徴した酒杯に満ちた、白色の酒で唇をぬらした。

美貌な街であった。

平気で汚い紙幣と交換される踊子たちの貞操帯

贅沢な機械でも見るやうに刑事たちが彼女を見た






東京ロマンティック恋愛記 (吉行 エイスケ)

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ダンス・ホールの溶暗のなかで、僕たちは縫目のない肉体のように結びついた

恋を語るには千載に一遇のこの曲

愛情の新らしい鋳型を僕は見出す

女取引所にあらわれる体温によって花咲いた男

華やかにひらいた脣






恋の一杯売 (吉行 エイスケ)

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銀座の市場では阿片の花が陽気に満開し

運命は、いまや惨酷に私に挑戦する。

脂ぽい好奇心

日本を喰いあげた私でさえ、アンナの桃色の乳房、私の身命を賭けて戦う。






独特の妖艶な比喩が一文だけでも多すぎて、内容が掴めなかったという。
素敵なのだけど。理解できるようになりたいなぁ。


如何に読書すべきか (三木 清)

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繰り返して読むということの楽しみは、その本と友達になるということの楽しみである。

緩やかに読むということはその真の意味においては繰り返して読むということである。ぜひ読まねばならぬ本は繰り返して読まなければならぬ。

正しく読むためには緩やかに読まねばならぬ。決して急いではならない。その本から学ぶためにも、その本を批評するためにも、その本を楽しむためにも、緩やかに読むことが大切である

正しく読むということは何よりも自分自身で読むということである。
マルクス・アウレリウスは彼の師について感謝をもって書いている。「ルスティクスは私に、私の読むものを精密に読むこと、皮相な知識で満足しないこと、また軽薄な批判者が云うことに直ちに同意しないことを教えた」。正しく読むことは自分の見識に従って読むことである。 正しく読もうというには先ずその本を自分で所有するようにしなければならぬ。借りた本や図書館の本からひとは何等根本的なものを学ぶことができぬ。高価な大部の全集とか辞典のようなものは図書館によるのほかないにしても、図書館は普通はただ一寸見たいもの、その時の調べ物にだけ必要なもの、多数の専門文献のために利用されるのであって、一般的教養に欠くことのできぬもの、専門書にしても基礎的なものはなるべく自分で所有するようにするが好い。しかしただ手当り次第に本を買うことは避けねばならず、本を買うにも研究が必要であり、自分の個性に基いた選択が必要である。その人の文庫を見れば、その人がどのような人であるかが分る。ただ沢山持っているというだけでは何にもならぬ。


愛読書を有しない人は思想的に信用のおけない人であるとさえ云うことができるであろう。

単に自分に媚びるというのでなくて、自分に役立ち、自分を高めてくれるような本を読むようにしなければならぬ。

読書においてもひとは自主的でなければならず、発見的であることが大切である

一つの国語はその民族の精神の現われであり、その思想の蓄積であるということができる。

原書を読むには語学の力がなければならないが、その語学というものも決して手段に過ぎないようなものではなく、却って語学そのものが一つの重要な教養である。

原典を読むことは読書を単純化するに必要な方法

多数の参考書を読むよりも一冊の原典を繰り返して読むことがそのものを掴むのに結局近道である。

古典を読むことが大切である如く、ひとはまたつねに原典を読むように心掛けねばならぬ。解説書とか参考書とかを読むことも固より必要ではあるが、本質的には原典を中心としてこれに頼らねばならぬ。原典はつねに最も信頼し得る書物である。

時代の感覚に触れるために、また今日の問題が何処にあるかを知るために、ひとは新刊書に接しなければならぬ。新しい感覚をもち新しい問題をもって対するのでなければ古典も生きてこないであろう。

一般に何が善い本かといえば、もちろん古典といわれるような書物である。古典は歴史の試煉を経て生き残ってきたものであり、すでに価値の定まった本である。

もし一度で理解することができなければ、暫らく間をおいて再び読むようにするが好い。努力して読書する習慣を作ることが大切である。尤も、むつかしい本、大きな本がつねに善い本であるという風に誤解してはならぬ。

ともかく善いものにぶっつかってゆくことが肝要

一般的教養は目的のない読書の結果である。けれども当てなしに読んだものが身に附いて真の教養となるというには他方専門的な読書が必要である。

若い時代から手当り次第に読んだものの結果が一般的教養になるという場合が多い。

目的のない読書、いわば読書のための読書というものも大切である。これによってひとは一般的教養に達することができる。

専門家になるために読書の必要のあることは云うまでもないが、ひとは特に一般的教養のために読書しなければならぬ。そして専門家も一般的教養を有することによって自分の専門が学問の全体の世界において、また社会及び人生にとって、如何なる地位を占め、如何なる意義を有するかに就いて正しい認識を得ることができるのである。

読書家とは一般的教養のために読書する人のことである。

読書の必要はただ一冊の本の人間にならないために、云い換えれば、一面的な人間にならないために、存在するのである。


努力する限りひとはあやまつ。

昔から同じ教訓が絶えず繰り返されてきたにも拘らず、人類は絶えず同じ誤謬を繰り返しているのである。例えば、恋愛の危険については古来幾度となく諭されている。けれども青年はつねにかように危険な恋愛に身を委ねることをやめないのであって、そのために身を滅す者も絶えないではないか。あやまちを為すことを恐れている者は何も掴むことができぬ。人生は冒険である。

濫読は明かに多読の一つであり、そして多読は濫読から始まるのが普通である。古来読書の法について書いた人は殆どすべて濫読を戒めている。多くの本を濫りに読むことをしないで、一冊の本を繰り返して読むようにしなければならぬと教えている。それは、疑いもなく真理である。

自分自身の読書法を見出すためには先ず多く読まなければならぬ。

身についていない技術は技術と云うことができぬ。読書にとって習慣が重要であるというのも、読書が技術であることを意味している。

読書は一種の技術である。

毎日、例外なしに、一定の時間に、たとい三十分にしても、読書する習慣を養うことが大切である。かようにして二十年間も継続することができれば、そのうちにひとは立派な学者になっているであろう。読書の習慣は読書のための閑暇を作り出す。読書の時間がないと云う者は読書の習慣を有しないことを示している

読書は他の娯楽のように相手を要しないのである。ひとはひとりで読書の楽しみを味うことができる。いな、東西古今のあらゆるすぐれた人に接することができるというのは読書における大きな悦びでなければならぬ。

読書の習慣を養うには閑暇を見出すことに努めなければならぬ。そして人生において閑暇は見出そうとさえすれば何処にでもあるものだ

読書の習慣も早くから養わねばならぬ。学生の時代に読書の習慣を作らなかった者は恐らく生涯読書の面白さを理解しないで終るであろう。

ひとは、単に義務からのみ、或いは単に興味からのみ、読書し得るものではない、習慣が実に多くのことを為すのである。

先ず大切なことは読書の習慣を作るということである




読書の楽しさと楽しみ方を教えてくれる本。
今までこういう本を読んだことがなかったので、とっても楽しく読めました。

一部「愛読書を有しない人は思想的に信用のおけない人であるとさえ云うことができるであろう。」みたいな勝手な決めつけが、ぼくにはちょっと嫌な感じに聞こえてしまったけど、それでも楽しい本。

この本にもあったとおり、「東西古今のあらゆるすぐれた人に接することができる」というのが、ぼくも思っていた本の楽しさ。実際に著者の方々に会えないとしても、その人の結晶を手元に受けることができる幸せは読書のありがたさですよね。

もっともっといろんな本が読みたくなりました。

姑と嫁について (与謝野 晶子)

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まだ私は家系、家風などという物も少しも尊重すべき物と思っていないのであるから、子供らが何処へ行って自治の生活を始めてもそれを祝福する外に何の註文もない。独立するに至った我子には絶対に干渉しないつもりであるから親の名を以て威圧がましいことをしないのは勿論

在来の父母舅姑は我子夫婦から財養し孝養されることを望んだのであるが、私は我子が独立し得るまでの教育にはあくまでも力を竭す覚悟でいる代りに、我子からその報償を得ようとは毛頭考えていない。

若い男女を教育する設備はいくらもあるが、専ら老婦人を教育する会合はまだ何処にも起っていない。老婦人の多く集る諸種の会合はあっても、それは凡て物見遊山の変形で、老婦人同志の奢侈と自慢の競進場たるに過ぎない

読書欲の全く欠けている多数の老婦人たちが今更他の勧めに従って無為の時間を多少でも新書の研究に善用しようとは考えられない。しかし老婦人たちを在来の姑根性から脱して明るく快濶な性情の人と改造するには現代の思想を何かの方法で理解させることが必要である

月経閉鎖期前後の婦人の心理というものがヒステリイ的にいろいろの症状を呈するのは顕著な事実

老婦人の中には早く良人に別れたり、また良人があっても愛情が亡くなっていたりして心寂しい生活を送っている人がある。そういう婦人は子供の愛だけがせめての慰安であり生活の力であったのに、子供に嫁が出来れば嫁は子供に対する愛の競争者である。そして結婚以後の子供の心理が母に対して幾分疎縁になるのも、またそれについて母が孤独の寂しさと嫁に対する一種の嫉妬とを感じるのも自然の人情であろうと想われる。

社会の要部が老人と青年とで成立つものである以上、老人と青年との意志が疏通しなければ社会は順調に進歩しない訳である


数年前に私は老人教育の必要であることを述べた。日本の教育という意味が青年教育ばかりに偏しているので、青年の思想はどしどし前へ進んで行くのに、老人は一度若い時に教育されたきりであるからその思想は過去のままに乾干びている

私は自分の息子のように嫁を愛し、あるいは蔭に廻って嫁を弁護するほどの美質を持った理想的の姑が甚だ稀に世にあることを認めるが、それは勿論尊敬すべき姑である。しかしいわゆる姑根性を脱しない大多数の姑たち

また妻という人は新聞紙に由れば普通の教育もあり、常識もあり、良人との仲も睦まじく、所帯持も好く、快濶ではないが優しい中に熱烈な所のある婦人で姑と嫁のある日本の家庭の大多数に伏在している。姑が嫁を愛するというような事は昔の清少納言も珍しい物の中に引いている通りむしろ例外

新聞紙の伝うる所に由れば、姑という人は明治以前の思想をそのままに墨守して移ることを知らず、現代の教育を受けた若い嫁の心理に大した同感もなく、かえって断えず反感を持って対し、二言目には家風を楯に取り、自分の旧式な思想を無上の権威として嫁の個性を蹂躙し圧倒することを何とも思わず、聞き苦しい干渉と邪推と、悪罵と、あてこすりとを以て嫁を苛めて悔いぬような、世にいう姑根性をかなり多く備えた婦人であるらしい






与謝野さんと一度お話してみたかったなぁと思わされる本でした。
ご高齢の方たちの頭がもっとやわらかかったら(やわらかい人もいますけども)、たしかに日本はもっとよくなると思いました。でもそれと同時に子どもたちの教育の質を上げることも大事ですよね。難しいものです。



小酒井不木氏スケッチ (国枝 史郎)

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もし又大道で商売った為に、ほんとに高貴性が失われるようなら、それは買手の罪では無く、その知識や芸術が、時代錯誤をしていたからさ。罪は却って高踏派にあるよ」と。尚私は進言する。「人間に関係ある一切の物は、大道商売をすることに由って、真価を発揮することが出来るのだよ」と。更に私はこんなようにも云う。「特に高踏派に属するものは、大道に商売う必要があるよ。いかに今日の大衆なるものが智的に情操的に進歩しているか、それを知ることが出来ようからね」と。

氏の社会観、人生観、文芸観というようなものは、氏の口からは聞くことが出来ない。そういう質問をする毎に、「まだ定まっていないのです」

氏は飽迄も自分自身を、アマチュアを以て任じて居られる。で氏は時々云われるのである。「苦労人の作った苦心の作を、どうしてアマチュアの身分を以て、悪く云うことが出来ましょうか」と。

自説を述べられる時だからである。しかし然ういう場合にも、極わめて婉曲な云い廻わし方をされる。「こう書籍にありました」「斯うある人が云って居ります」つまりこんなように云われるのである。これは露骨な自己拡張を、欲しない人の態度である。

広い額だということは、氏が博士だという事に由って、非常に合理的に解釈出来よう。狭い額の人間など、往々例外はあるにしても、先ず滅多に博士には成れない。





小酒井不木氏を尊敬する著者が書いた小酒井氏について。
ぼくは小酒井氏について何も知らないですが、その控えめで美しい態度は尊敬。
ぼくもいつか言えるようになりたいです。「まだ定まっていないのです」。なんて。
かっこよすぎますよね。

色褪せた書簡箋に (堀 辰雄)

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すべてのものが彼等には存在しないよりももっと悲しく、もつとつまらなく見えるのである。

かかる自殺の中には美學がある自分の最後の行爲を注意深く構成せんとする氣遣ひがある

自殺の第三の種類として次のものが考へられる。ある種の人々は人生を非常に冷靜に考へる、そして非常に絶對的な、非常に野望的な考へをもつ、そのために彼等は彼等の死の處分を出來事や有機的變化の偶然に委ねたくないのである。彼等は老衰を、失格を、出來事を嫌惡する。我々は古人の中にさういふ人間離れした決斷のいくつかの實例といくつかの讚美とを見出す。

自殺する人々。ある者等は自己に克つ。他の者等は、反對に、自己に負けて、彼等の運命曲線(私はそれがどういふものであるか知らぬが)に從ふがごとくに見える。

人は夢みるごとくに自殺をする。





自殺の中に美学があるっていったら、なんだか悪い気もしてしまうのですが、
それでも自殺をする人がそれぞれ自分なりに死に方を考えて死のうとしているわけですから、その方法を「美学」と呼んでもたしかにいいような気もしました。

婦人雑誌と猫 (山本 宣治)

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即ち社会といふ大組織の前によし一個人が頑張つて見ても、急行列車の突進して来る軌道上に犬が吠えてる様なもので、いくら吠えてもごまめの歯ぎしりで到底埒が明かぬと多くの人は云ふのだけれ共、実際軌道の傍に居る一人の男が、今走つて来る汽車は気に食はぬから止めてやれと思ふたら、唯一投手の労、軌道の繋ぎ目のネヂに触れゝば、よし犬には出来ない芸当でも、理智を具へた人間ならやりおほせる事が出来るといふ譬へ話である。

文明ほどこはれ易いものは外に又とない。如何に高度の文明でも、それが面して居る多種多様の危険に対して、終り迄頑張り続けた例は無い。

所で一方に於て此雑誌の読者の頭を悩まし又肩を入れて居る三大問題といふのは、三個のシー(Clothes, Cookery, Courtship)即ち着物と料理と異性の愛を求める事である。

「あらゆる文明は、その文明を造り上げた人々の理智と同情と互の信頼とに関係がある。野蛮時代はさうでなくて、其頃『各人の家は彼の城郭』であつた。





舌を噛み切った女 またはすて姫 (室生 犀星)

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色気たっぷりのこぼれる景色

時間を揉み潰していて

その二の腕は噛みつきたいほど、ふくれて白がこぼれた

こぼれるわかさ

お前は一日ずつ女になって行くばかりで、おれはそのわかさを趁っかけている





遺書 (与謝野 晶子)

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洋服などは直ぐ小くなるのですから下へ譲つて行かなければならないではありませんか、さうした物質的のことで親の愛の尺度は解るものではありません。

世の中のことは二三年もすれば信じ切つて居た物の中から意外なことを発見するものであるなどと、私は人間全体の智慧の乏しさ

それには涙に匂ひが附いて居るので

亡霊になつてからまだあなたのお顔だけはしみじみと見たことが初めの一度きりしかないのです。

双生児と云ふものは普通人の想像の出来ない愛情を持ち合つて居るもので、まだ生れて四五月目から泣いて居る時でも双方の顔が目に映ると笑顔を見せあつたあなた達

大人ならば到底眠れないだけの悲痛な音がこの子の心臓に鳴つて居る筈である





双生児への想いに、なるほどと、そしてなんて神秘的なんだろうと思った。

離婚について (与謝野 晶子)

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浅薄な表面の装飾や衒いでなく、全人格を挙げて立派に装飾し、それを女子の誇とするように力めねばなりません。美しい衣服を著るにも、読書をするにも、文学や美術を嗜むにも、常に立派な娘に成る、完全な人間に成るという心掛が必要です
今の家庭や学校教育が頼みにならぬとすれば、若い女子自身が各々自分の「娘」時代を尊重して我手で立派な人格を修養せられる事が何より大切な急務だと思います。

離婚は講和でなく戦争

秋子女史はまた「某実業家は常常子弟に向い、世に処して成功しようと思うには女房に惚れなくては不可んと言われたそうですが、誠に味うべき言葉で、気に食わぬ点はなるべく寛大に見て、自分の妻以外世間に女はないというほどに取扱ってこそ家庭は円満に参るものだろうかと存じます」といわれました

今の教育が単に学校を卒業した男子と、時世遅れの良妻賢母主義に合う女子とを作る事にのみ急で、肝腎の「人格を完備した男女」を作る事を忘れ

趣味が人格を形造るほどに高くなれば、甲と乙と趣味の種類が違っていても双方互にその趣味を尊敬し合うようになってその間に調和が出来るものです

一人の夫や両人の舅姑や自分の生んだ子供に対する心掛などは、その場に臨めば大抵の女に自然会得が出来るものです。また割烹の法とか育児法とか申す事位は、台所で母や下女と相談したり、出入の医者に聞いたり、一、二冊の簡便な書物を読んだりしても解る事です。かような事を倫理だとか学問だとか申して高等な学校で教えるのは馬鹿げていると私は常に考えております。

女子大学などと申す立派な名義の学校まで出来ながら、多数の生徒は何を習っているかといえば、良妻賢母主義の倫理と家政科と言う割烹の御稽古

『朝日新聞』に出た諸先生の御説を拝見しますと、女子音楽学校長の山田源一郎先生は「既に一個の家庭を持った以上はやはり夫唱婦和でなければ成立って行かぬであろう」と申されましたが、今の世の中に男も女も人形のような者でない以上、この夫唱婦和という子供の飯事みたいな手緩い生気のない家庭は作れまいかと存じます。





見事な本だった。
離婚は、戦争。

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Hiro

Author:Hiro
読んだ本の記録。忘れたくない言葉。

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