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私娼の撲滅について (与謝野 晶子)

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娼婦とは奴隷の一種である

経済上の独立精神と独立能力との麻痺した女が、良心と肉体とを男子に捧げて財物と換えることが娼婦の職業である。

男には強健な体質を持っている限り、そうして克己的の節制を加えるだけの理性と意志の微弱である限り、一婦との接触に甘心しておられないような性欲の過剰がある
また体質の如何にかかわらず他の新しい婦人との触接に由って享楽しようとする欲望、或学者のいわゆる性欲上の好新欲が男にある。

女の性欲は概して消極的、受動的である。少くも男のようにやむにやまれないような強烈な自発がない(かようなことは在来の習慣として女の口から述べることを憚る所であるけれど、私は人間の真実を研究する必要から押切って言おう)。

殊に純潔な処女にあっては性欲の肉体的自覚は全く眠っている。異性に誘導されない若い女が性欲に対する好奇心は感じていても、徴兵適齢前の男が早くもその肉体的自覚に悩むような性欲の自燃自爆を見ることは全くない。病的としての特例はあるであろうが、一般の女についてこの性欲の消極性は真実であると私は思う。

太抵の若い女は男に比例するだけの性欲を知らずに母となってしまう。そうして妊娠時や産後やにおいてかえって著しく性欲の減退を余儀なくされる。
この性欲の不平等が概して男を反貞操的たらしめ、女を貞操的たらしめる重要な原因となる。

男が一人の愛する女を守るには概して肉体上の苦痛が伴う。少くも理性と意志を以て肉体を制御して性欲を転化するだけの克己的努力を要する。女が一人の愛する男を守るには、精神的にも肉体的にもそれが自然の経過である如く極めて容易である。若い男は性欲に由って自動的に堕落する。若い女は直接自らの性欲に由って堕落することはない。性欲に対する好奇心からも堕落するには到らない。若い女が性的に堕落するのは男の脅迫もしくは誘惑と、女自身の無力、無智、無財産、依頼心、遊惰性と、女を今日のような弱者の位地に置く社会的事情とがその原因を成すのである。

娼婦がまだ発生しなかった蒙昧時代の男は、腕力で多数の女を脅迫して、その強烈な性欲と性欲の好新欲とを満足させていた。それは現に動物界で見るような状態であった。

女は奴隷として男の性欲遂行に奉仕するばかりでなく、奴隷として男のために耕作、紡織、家事、育児等に役立たねばならなかった。女の労働から得る財貨は当然男の所有に帰するのであった。

良心と肉体とを男に対して売ることを余儀なくせられる二種の女が生じた。第一種は長期の生活の保障を得るために一生を男に託する女、即ちその当時の妻たり妾たる者がそれである。第二種は短期の生活の保障を得るために一夜を男に託して遊楽の器械となる女、即ち娼婦のともがらである。この第二種の女には労働を避けて物質的の奢侈を得ようとする遊惰性と虚栄心に富んだ女が多く当った。
その二種の女が後世になって、一は妻及び妾たるその位地を倫理的に――仏教、儒教、神道、武士道が妾を是認した如く――正しいものとして認められ、一は醜業婦として倫理的に排斥せられるに至ったのは、男に便利な妻妾の制度を男が維持する必要からの便宜手段であって、男の倫理的観念が妻及び妾に対等の人権を認めるまでに進歩したからではなかった。男はその独占欲から妻妾の貞操を厳しく監視するにかかわらず、男自身の貞操を尊重しようとはしなかった。妻妾の貞操は偏務的のものであった。そうして男は妻妾以外に娼婦との触接に由てその性欲の好新欲を満足させるのであった。

妻の意義は近代に至って大に変化している。しかし現代の妻たる婦人の中にも、愛情と権利との平等を夫婦の間に必要としないで、なお昔の第一種の売淫婦型に甘んじている者が尠くない。

それらの婦人が自己の醜を忘れて、第二種の売淫婦ばかりを良心の麻痺した堕落婦人であるように侮蔑するのは笑うべきことである。私はそれらの婦人が醜業婦を憎むのを見るたびに、彼らは無意識に商売仇を憎んでいるのであるという感を禁じ得ない。

一定の場所に集って売淫するものを集娼といい、個々に諸処へ散在して売淫するものを散娼というのであるが、公娼にも巴里のそれのように散娼と集娼とがあり、私娼にも散娼と集娼とがある。 これらの娼婦が倫理的及び衛生的にその女自身を腐敗させるばかりでなく、倫理的及び衛生的に人類を毒するものであることはいうまでもない。この意味において主張せられる廃娼説の正しいことは何人も認める所である。しかし廃娼説を実行に移そうとすると、娼婦の発生するいろいろの原因から先ず絶滅して掛らねばならないことに何人も気が附く。そうしてそれらの原因が現在の文明程度において一朝一夕に絶滅し得られるものでないこと

私は有妻者にして公私の娼婦を買う男の尠くないことを知っている。それらの男の性欲の過剰と好新欲とは、男自身に反省して克己と節制の習慣を作ると共に、その旺盛な性欲的能力を他の労働もしくは精神的作業に転換するように努力すればその放恣を防ぎ得るものであろうと私は想像する

私は近く政府が学生の売淫を取締ろうとする以上に、有妻の男の買淫をも厳しく取締って欲しい。

独身男子の性欲が或程度以上に自制しがたいものであり、また人生に享楽の自由が或程度まで許さるべきものでありとすれば、主としてそれらの男子が娼婦を要求することはやむをえない。不徳であるが寛仮さるべき不徳である。但し人間が人間の肉体を買うという事実が、文明生活の理想に乖いた不徳であり、公衆の間に多大の羞恥を感ずべき行為であることをあくまでもそれらの独身男子と娼婦とに自覚させることは、併せて衛生思想を自覚させると共に緊要である。このことは国民一般が相戒めねばならぬことは勿論であるが、政府にもまた或程度までこれに対する用意があって欲しい。

私は内務省が先きに絶滅させる必要のある、そうして絶滅させることの容易な公娼を存して置いて、絶滅させることの難い、そうして存置する方が公娼よりも害毒の露骨でない私娼を撲滅しようとするのを見て、その無駄な努力を惜むよりも、更にその社会的影響の好くないことを想う者である。内務省の真意は公娼を倫理的に公認するのではないのであるが、世の公娼営業者、多数の放恣な男子及び多数の無智な女子はその意味に解釈しようとするであろう。






与謝野晶子さんの本を最近よく読むのですが、このお方ほんとうにスゴイですね。
今までお名前しか知らなかったので、なんとも失礼なことをしていたと気付きました。
なんとも先進的な考え。今の時代ですら十分すぎるほどに通用する考えは、現代の人の心にも真っ直ぐに響くでしょう。
こんなモノの考えがこの本が出た1916年ころに生まれているに驚きなのでした。

こういう本がもっと一般的に広まってしまえばいいのにと思いました。
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よく生きてきたと思う (竹内 浩三)

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アホじゃキチガイじゃと言われ一向くにもせず詩をかいていようかそれでいいではないか

もっと自分を考えるんだもっと弱点を知るんだ

もっとみんな自分自身をいじめてはどうだ

おだやかな顔をして人をいじめるこれが人間

みんながみんなでめに見えない針でいじめ合っている世の中






常日頃行われるいじめについて書かれているのですが、

もっとみんな自分自身をいじめてはどうだ

っていいですね。

他人をいじめるんじゃなくて、自分自身をもっと苛めてみて、弱さを知るというか、強さを得る、というか。
自助の論理ですが、こんなことがすべての子どもに通用するのであれば、いじめはとうになくなっていますよね。
でも、この言葉がとても印象に残りました。


母子ホームの子供たち (槙本 楠郎)

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赤い西日

「あら、ごちそうねえ。」

「ごめん下さい。」 睦子が扉口にのぞきました。 手を洗つて来て、今おむすびをたべようとしてゐた清三は、につこりしていひました。「やあ、おはいり。いいものがあるんだよ。」


おとうさんはいつ帰つて来られるかわからないので、去年の暮に、この母子ホームへ入れてもらふことになつたのです。
この建物の中には、三十幾つの部屋があつて、大ていどの部屋にも、おとうさんが出征されるか、でなかつたら戦死されて、おかあさんが、子供をつれて働いてゐる家族たちが、それぞれ住んでゐるのでした。

壁ぎはの箪笥の上にかざつてある、戦闘帽をかぶつたおとうさんの写真






「あら、ごちそうねぇ。」なんてぼくは生きてきてたぶん一度も実際に聴いたことがないと思います。
だからか知らないけど、なんか妙に引っかかる台詞でした。
「あら、」と「○○ねぇ。」を組み合わせるとなんか心に残るのかなぁ、なんて思いました。
情緒がありますよねきっと。少なくてもぼくはそう感じました。



新しい美をつくる心 (宮本 百合子)

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そんな派手な、きれいな色は使うなというから、使わない、またつかわせない。それでいいでしょう。それだけのところに止まるとすれば私たち女自身の屈辱があるばかりだと思う。〔一九四〇年十二月〕



質実ということは大切なことだ。いつの時代だって、女のみならず男をこめて、人間の美質の一つとして考えられて来た。質実な美感の深さ、そこにある抒情性のゆたかさというようなものは、人間の心にたたえられる情感のうちでも高いものの
一つである。

この頃いったいに女のひとの身なりが地味になって来たということは、往来を歩いてみてもわかる。





質実っていい日本語だなぁ、と。
人間に生まれたからには、極めたいものですね。

他人の言葉に立ち止まってしまうこともありますが、そんなものにへこたれず、
堂々と生きた者勝ちだと、読みながらなんとなく思いました。

姑と嫁に就て(再び) (与謝野 晶子)

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私は問ひたい、女に對する公平な批判と云ふものが日本の何處にあるのですか。私は今の場合、男を批難することは七分、女を批難することは三分の割合でせねば公平を得られないと思つて居ますが、かう云ふ意見を誰に同意して頂くことが出來るでせうか。姑と云ふものは女でありながら男の横暴を其同性の若い人間に加へる者です。さうして今日では第一に教育者が其姑の味方です。

太抵は嫁の方で生きた死骸になつて諦めてしまひます

男子自身のために作った道徳習慣が勢力を張つて居る不完全な社會状態

在來の道徳習慣を以て嫁に迫る姑は鋭利な刄物にも優る怖ろしい武器を以て嫁の個性を虐殺しようとする人です。

老婦人達が無智なために人間としての自己の自由を男子に蹂躙されて悲痛を感じないのは致方がないとしても

老婦人の無智は概して若い女の無智よりも甚しいと思ひます。





一番上の文章、「私は今の場合、男を批難することは七分、女を批難することは三分の割合でせねば公平を得られないと思つて居ます」というところ。
2014年現在でも十分通用すると思いました。

男がなぜか(本当になぜと思うが)優遇されがちな世の中は、なんとなくげんなりしてしまいますね。
いい加減新しい世界が見たいものです。


女の一生 (森本 薫)

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焼夷弾の焼跡には棒切れなんか残ってやしません。探したって無駄な事ですよ。

この見渡す限りの焼跡にも間もなく今までの日本とはまるで違った新しい何かが芽をふいて来るでしょう。人間の恨よりもその新しい芽の方にわたしは興味を感じています。


私はわたしの体と心をささえていたものを、一ぺんにへし折られてしまった様な気がします。何をしても無駄な様な気もするし、じっとしてはいられない様な気もするし、ほんとは何が何だか分らなくなってしまっているのです。

実に短い、甘ずっぱい感動

姉さんと知栄ちゃんは太陽と月みたいなものですね。姉さんのいる所には知栄ちゃんはいない。知栄ちゃんのいる所には姉さんの姿がみえない。

間違いと知ったら自分で間違いでないようにしなくちゃ。

結局結婚の相手というものはどうしてもこれでなくちゃというようにして、決るんじゃないってことがだんだんわかってくるような気がするわ。

人間という奴は、何かやると必ず間違いをしないではいられないらしいな。まるで間違いをするために何かするみたいだ。

誰も彼もがお前のように遠慮勝ちの望みを持っていたら、世の中はどんなに穏やかに美しくなるでしょうね。

ひとつの国の言葉がわかるということは、実はその国の文明と人間の特質を会得するということなのだもの。

人間の幸福だとか平和だとかいうものは一枚の紙の表だけみているようなもんだという気がするのだ。幸福で仲間のたくさんいる人間という物は、それだけ不幸で独りぽっちになる機会が多いんじゃないのかね。






言葉が人間をつくっているんじゃないかと、最近そんなことをよく考えてしまいます。
日本人の控えめさも日本語がつくっているんじゃないか、と。
その言語が持つ性質を理解することで、その各々の国の文明が見えてくるのであれば、やはり言語を学ぶということはとてもおもしろいことなのでしょうね。ぼくは英語を学ぶだけで今は精一杯ですが。。。

或る少女の死まで (室生 犀星)

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僕はあの子供の顔を見た瞬間、いきなり花のようなものを投げつけられたような気がしたのだ。

ふじ子の肖像で殆んどあのやさしい呼吸をしているかと思われるほど、底からな表情をくみ取って描かれていた。

私はこの金魚というものの、どこか病的な、虚偽な色彩のようなものを好まなかった。その娼婦のように長い尾や鰭に何かしら人間と共通な、わけても娼婦などと一しょなもののあるのが嫌いであった。ときには、汚なくさえ感じた。

「君は生活のらくな連中を見ると、どんな気がする。」「その存在はその人にとって運命だからね。羨望もなければ特別な愛もない。しかし、僕らのように貧しいものは決してあの連中に劣らないという自信を強くするね。」と私は答えた。

「そうだね。余りに清浄なものと、余りに涜れたものの相違は、ときとすると人間の隔離を遠くするね。」

あのふじ子さんという女の子を見ていると、僕らと人間の種類が異っているような気がするね。」

ぶしつけな、機械を取扱うような固い検事の物の言いかたも不快であった

おしろいがチョオクのように乾いていて、すこしもあぶら気のない顔であった。それは醜いといえば極端に醜くかった

彼女は明るいつやつやした目で私を見上げた。誰でも一度は、この子のように美しい透明な瞳をしている時期があるものだ。五つ六つころから十六、七時代までの目の美しさ、その澄みわたった透明さは、まるで、その精神のきれいさをそっくり現わしているものだ。すこしも他からそこなわれない美だ。内の内な生命のむき出しにされた輝きだ。

人はみな自分の内によくないものを持っている。

そして人間が大きくなると何という獣に近い兇暴になることであろうと感じたにちがいないと思った

ぐったりした餅のように乱次のないからだ

どこの家もみな深く睡り込んで、それがいかにも幸福な、私にかかわっていない平和な睡りであるように思われた。

私は烈しい後悔のために、自分の生涯を汚したような気がした

下駄のように粗雑な感じの男

こうした酒場にありがちな、だらしのない飲み仲間が得て出来るもの




貧しさが自信になるなんて昔は考えたことがなかった。もちろん人それぞれ考え方は違うのだけれど。
でも、貧しさが傍にいるともっと頑張ろうと思えるからありがたくもありますよね。


日本の庭 (室生 犀星)

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あそこにこそ、小さく貧しい庭であっても、日本の肌身がある。

庭は日本の身だしなみ

私は最近庭には木も石もいらないような気がし出した。垣根だけあればいい、垣根だけを見て、あとは土、あるいは飛石を見るか、苔を見るようにして木というものはできるだけすくなくまた石もできるだけ少なくしたいと考えるようになった。何

庭が夜の中に、襟を正して身づくろいしながら褥にはいるときは、その庭にあるものが一さいに融けあう美しい瞬間である。花も石も、木の幹も、みなそれぞれに見る人の心につながって来る。

庭を見るということもその日の時間がたいせつであって、朝早く見て美しい庭もあろうし、午後の斜陽の射すころに栄える庭もあろうから、その庭の主人にいつごろがいいかということを打合せする必要がある。

すくなくとも庭を手玉にとり、掌中に円めてみるような余裕が生じるまでは、人間として学ぶべきもののすべてを学んだ後でなければならぬような気がする。

庭をつくるような人は陶器とか織物とか絵画とか彫刻とかは勿論、料理や木地やお茶や香道のあらゆるつながりが、実にその抜路に待ちかまえていることに、注意せずにいられない。結局精神的にもそうだが、あらゆる人間の感覚するところの高さ、品の好さ、匂いの深さにまで達しる心の用意がいることになる。

純日本的な美しさの最も高いものは庭である






庭が日本の身だしなみなんて考えたことがなかったのですが、
今すごく日本的な庭が恋しいです。

外国の”ガーデン”もそりゃあキレイなのだけど、”派手”で括ってしまう感じで、ぼくの思考もそこで終わってしまいがちです。逆に日本のものは派手さよりも素朴というか「寂れ」を意識してしまうから、庭を見ながらより物事を考えることができるのでしょう。日本人にとって「寂び」がそれほどまでに心に響くものであるのはなんでなんでしょうね。

チャンプルー (山之口 貘)

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飛魚は、輪切りにして、塩煮にするとうまい。豆腐といっしょにおつゆにするときも、醤油を使わずに塩味にする。ぼくは、飛魚の塩煮が好きで、特に、眼球と脳髄を食べずにはいられなかった。

へちまは、醤油で煮てもうまいし、鰹節のだしでおつゆの実にすると、あっさりしてかるい味がある。それから、シブイがある。とうがんのことである。とうがんもおつゆにしたり、醤油で煮たりして食べる。特にうまいというわけではないが、日常よく食べる。

沖縄では、赤くなったれいしは食べない。青いうちに、チャンプルーにして食べるか、あるいはうすくきざんで、砂糖をきかせた酢の物にして食べる。 なお、沖縄の豆腐はかたいので、チャンプルーにしても水気がなく、出来上りがさらっとしている。東京の豆腐でつくるときは、布巾でよくしぼって、豆腐をかたくしてからつくるとよい。

チャンプルーは、その材料が日常の手近にあるものばかりであり、作り方も非常に簡単で、その場で誰にでも出来るもので、単純素朴のあっさりとした味がよいのである
これは、豚の油を、野菜いためにする程度の量を鍋にたらし、それが焼けたころ、豆腐を適当の大きさに千切って入れ、もやしを入れていっしょにいため、塩で味つけするだけのことである。ねぎやにらの場合は寸位に切るか、あるいは、こまかくきざむ。ぼくの好みから云えば、れいしのチャンプルーの味は格別で、あのほろにがい味は忘れ難い。

普通、油いためしたものをチャンプルーと云うのである。その種類には、ゴーヤー(れいし)チャンプルーがあり、ビラ(ねぎ)小チャンプルー、マーミナ(もやし)チャンプルー、チリビラー(にら)チャンプルーなどがある。それらは野菜である。外にトーフ(豆腐)チャンプルーがある。しかし、どのチャンプルーの場合でも、大ていトーフはいっしょである。

アシティビチというのは、豚の足の料理である。云わば、足の吸物である。これは一般の家庭でも適当に食膳にのぼってくる料理である。

ミミガーは、一般家庭ではあまり食べなかった。沖縄では辻町の料理屋あたりでは、酒の肴としていつでも食べられたのである。ミミガーは、一口に云えば豚の耳の料理である。
よくゆでた耳を、うすくきざんで、大根おろしといっしょに三杯酢にしたものである。こりこりして、なかなかさっぱりしたものである。




チャンプルーの意味を知らなかったので参考になりました。単純に「油いため」なのですね。

冬の庭 (室生 犀星)

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竹はすぐな心を表はしてゐるやうで陳腐であるが左う考へる方が、無理がないやうである。かれは寂しいが喜んでゐるやうな木である。絶えず愉快な表情の中に、流れるやうな寂しさをもつてゐる。そして雨とか雪とかになほ一層その奥の手をみがき出してゐるやうである。 梅に至つては匂ひであらう。

松のその風籟の音に秀でてゐるは言ふまでもないが、一群の清韻は遥に天に向つて何ものかを奏でてゐるやうである

わたくしはこのごろ松竹梅といふ三点樹を昔の人がさう言ひならしてゐる言葉に感心してゐる。松竹梅といふと古い言草であるが、松といひ竹といひ又梅といふは樹の中の三兄妹であつて、三樹交契のいみじさ美しさは喞々としてわたくしの心に何かを囁いてくるのだ。木の世界の王さまでなければならぬ。実際この三樹交契を以つて庭を作るとしたら最早何ものも要らない。昔から此の木々をもつてめでたいものの標本とした。その故深い意味が意味ばかりでなく、心までさう感じさせて来たのは恥かしながらわたくしに取つては最近のことである。


冬の庭木としては別に特別なものはないが、梅擬の実の朱いのが冬深く風荒んでくるころに、ぼろぼろ零れるのはいいものである。南天の騒々しさにくらべると仲々澄んだ感じである。これは零れ落ちるときが最もよい。

雪がきたらそのままによごさずに置くのである。雪に触つたところが一と処でもあれば、その睡り深い姿を掻き起す。寂寞が乱れてはならない。消える時もひとりで斑に美しく消えるにまかせるやうにする。手洗ひや、つくばひに張る氷も雪とともに厳格以上の厳格さをもつてゐる。冬の庭の要を鏡のやうに磨き立てるものでなければならぬ

雪は冬の庭に永く眠つてゐるほど寂寞である。

冬は庭木の根元を見ると、静かな気もちを感じさせる

苔は苔のままむくみ上つてゐるところに、何とも言へぬ深い寂しみが蔵はれてゐて、踏んで見るとざつくりと土が沈む。乾いた灰ばんだ何処か蒼みのある土が耐らなく寂しい。

冬の庭の味ひの深いのは何といつても霜で荒れた土がむくみ出し、それが下ほど凍えて、上の方が灰のやうに乾いてゐる工合である。






冬の庭を見る目が今年は変わりそうです。
でも外国にいては、この感覚はなかなか味わえないのだろうなぁ。そこは素直に寂しいと思いました。

罠を跳び越える女 (矢田 津世子)

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張り子の虎みたいに首を伸ばして、部長はその眼の光りに露骨な色を加えた。

部長は笑って、笑って、馬のように息を切ると

白髪染で染たらしい黒すぎる部長の髪を、睫毛の先きで軽蔑した

係長の眼を盗んで槇子へ下手くそなウインクを送ってよこした。

余り長びくと折角の気が脱けてしまうわ




詩とはなにか (山之口 貘)

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北川冬彦は「なぜ詩を書くか、私にとっては、現実の与えるショックが私に詩を書かせるのだ、というより外はない」といい、高橋新吉は「自然の排泄に任すのである」といい、村野四郎は「私は詩の世界にただ魅力を感じるから詩を書きます」というのであり、深尾須磨子は「私が存在するゆえに私は詩を書く」といい、田中冬二は「私はつくりたいから、つくるまでであると答えたい」とのこと

文明のどこにも人間はばたついてゐて

詩人がどんなに詩人でも 未だに食はねば生きられないほどのそれは非文化的な文明

ぼくの経験によると、人間は生きていると、あっちもこっちもかゆい

詩人としてのぼくの仕合わせは、たとえ詩を書く資格がないにしても、詩を書かずにはいられないというそのこと

なんのために詩を書くのかと問われても、それらの答えは、灰皿やマッチみたいに、すぐに出せるものではないからなのである。つまりは、詩とはなにかといわれても、詩の定義はむずかしくたとえばある詩人によると、詩は叫びであるというのである。そうかとおもうとある詩人は、詩は怒りであるというのである。また詩は美であるというのもある。あるいは、散文であっても小説であっても、あの特定の審美的情緒を感じさせるものがあれば、それを詩といってもよいという風なのもある。また、詩は批評であるとするものもある。
またある詩人は、精神のある状態の記録であると説明する。そしてまたある詩人は、詩は経験であるというのである。またある詩人にとって、詩は美や真実をもとめる人間感情の純粋な表現であるという。ある詩人は、詩は青春であるともいうのである。数えあげると、おそらく詩人の数ほどいろいろあるに違いないのである。






本当にやりたいことって、資格がなくてもやらずにはいられないことなんだ、と。

「女らしさ」とは何か (与謝野 晶子)

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「女らしくない」という一語が、昔から、どれだけ女子の活動を圧制して来たか知れません。習慣というものは根強いもので、今でも「女らしくない」といわれると、一部の女子は蛇でも投げつけられたようにぎょっとして身を縮めます。

「女らしさ」という言葉から解放されることは、女子が機械性から人間性に目覚めることです。

社会にはまた、昔から、或種の活動に専心して、わざと家庭を作らない男女もあります。何事も個人の自由意志に任すべきものですから、そういう人たちに生殖生活を強要することも出来ません。その人たちは、家庭の楽み以上に、自己の専門的生活を評価しているのです。それでこそ、その人たちの人間性が完全に表現されもするのです。

また万人に結婚の可能な新社会が出現したからといって、人間は必ずしも結婚して親とならねばならないという事はなかろうと思います。「人間的活動」の領域は濶大され、それに参加する自由と機会とを万人が保障されている社会に、男も女も、適材を以て適処に就くのが宜しい。

親となることの欲求は、固より人間の内部に備っている最も強烈な本能の一つです。即ち人間性の内容として重要な位地を占めているものです。それがどうして人間の力で失われよう。

女性であるという理由だけで男子の隷属者となり、実力の優れている場合にも、詰らない男子の下風に立たせられているという有様ですから、女子自らその人間性を鍛え出す機会をも失っているのです。

男子と同じ程度の教育を授けると共に、男子と同じ位の責任ある位地に立たせて、その手腕を振えるだけの職業に就くことの自由を女子に許して御覧なさい。そうして、少くとも明治以来男子に与えて来ただけの激励と設備と年月とを女子に与えて御覧なさい。日本の女子がその内に潜在する人間性を発揚して驚くべき飛躍を示すことは、決して欧米の女子に劣るものでなかろうと思います。

人間性は何人にも備っているのですが、これを出来るだけ円満に引出すものは教育と労働です

無情、冷酷、生意気、半可通、不作法、粗野、軽佻等の欠点は、男子においても許しがたい欠点であることを思わねばなりません。

愛と、優雅と、つつましやかさとは男子にも必要な性情であると私は思います。それは特に女子にのみ期待すべきものでなくて、人間全体に共通して欠くことの出来ない人間性そのものです。それを備えていることは「女らしさ」でもなければ「男らしさ」でもなく「人間らしさ」というべきものであると思います。人間性は男女の性別に由って差異を生ずる性質のものでないのですから、もしこれを失う者があれば「人間らしくない」として、男女にかかわらず批難して宜しい。

「女のする日記というもの」を書いた紀貫之も、同じ理由から、その「男らしさ」を失った人間として批難されねばなりませんが、歌人として、また国語を以て文章を書いた先覚者として尊敬されているのはどうした訳でしょうか

もし男女の性別に由って歴史的に定まった分業の領域が永久に封鎖されているものなら、男子が裁縫師となり、料理人となり、洗濯業者となり、紡績工となることは、女子の領域を侵すものとして、「男子の中性化」が論じられなければならないはずです。

私は女子が「妊娠する」という一事を除けば、男女の性別に由って宿命的に課せられている分業というものを見出すことが出来ません。

論者は、「男子のすることを女子がすると、女らしさを失う」というのですが、人間の活動に、男子のする事、女子のする事という風に、先天的に決定して賦課されているものがあるでしょうか。

そもそも、その「女らしさ」という物の正体は何でしょう。我国では女子が外輪に歩くと「女らしくない」といって批難されます。また女子が活溌な遊戯でもすると「女らしくない」といって笑われます。そうすると、内輪に歩くということ、人形のように温順しくしているということなどが「女らしさ」の一つの条件であることは確かです。しかし日本ではそうでしょうけれども、欧米の女子は悉く外輪で歩いています。また我国でも多くの女学生が唯今は靴を穿いて外輪に歩きます。

その人たちの言う所をかいつまんで述べますと、女子が男子と同じ程度の高い教育を受けたり、男子と同じ範囲の広い職業に就いたりすると、女子特有の美くしい性情である「女らしさ」というものを失って、女とも附かず、男とも附かない中間性の変態的な人間が出来上るから宜しくないというのです。市町村会議員となる資格さえ女子に許していない日本において、どうして、男子と同等の教育とか職業とかいうことが軽々しく口にされるのですか。






いつ発刊されたのかは知らないのですが、きっとけっこう前。
しかし、こんなに優れた、かつ有名な人の本が出回っていながら、未だに「男らしさ、女らしさ」にこだわってしまう人の多いこと。
こういう意識の問題について時代は本当にゆっくり進んでいくのだなぁと痛感しました。
正直、遅すぎなのですが、自分で解決できるわけもなく。

もっと多くの人に読まれてほしい、できたら小学校の国語の本に入れてほしい内容なのでした。


「愛と、優雅と、つつましやかさとは男子にも必要な性情であると私は思います。」という言葉はぼくにとって特に印象的でした。そのとおりだと思ったので。

秋の瞳 (八木 重吉)

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やさしき唇

おもたい沼ですよしづかなかぜ ですよ

ふしぎであらうとも うつくしく咲きいづるならひたすらに わたしも 舞ひたい

くものある日 くもは かなしい くもの ない日そらは さびしい



ひかりはありと あらゆるものをつらぬいて ながれましたあらゆるものに 息を あたへましたにんげんのこころもひかりのなかに うまれました

よほのかにも いろづいてゆく こころ

やぶれたこの 窓

秋のこころが ふりそそぎます






読みながら驚いたのが雲のない日は空が寂しがっているという表現。見事だなぁと。
こころが降り注ぐという日本語も乙でした。



民芸とは何か (柳 宗悦)

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正しい労働はただ協団においてのみあり得るのであると。よき作は仕事への精進と、創造の自由とを切要します。単なる労働の苦痛から何の美が現れましょうや。

用い難いもの、用に堪えぬもの、それは器ではなく、器の資格はなく、器の意味がないのです。それ故器の美しさもありません。工藝においては用美一如です。

なぜ貴族的な品が多く病いに罹るのでしょうか。用を務めないからです。働き手ではないからです。それは多く床に据えられて働くことを厭っています。働くにしては余りに着飾り過ぎているのです。錯雑さがなぜ美を乏しくするか。それは働くに邪魔だからです。働かずば必然体は弱くなります。彼等はおおむね繊弱なのです。錯雑を去り華美を棄て、すべての無駄をはぶいて、なくてならぬもののみ残ったもの、それが民藝品の形であり色であり模様なのです。「なくてならぬもの」、これこそ美の基礎であると云えないでしょうか。

工藝の美を決定するものは、それがどれだけ美的に作られているかということではなく、それがどれだけ用途のために作られているかということであると。

今の人々はこぞって在銘のものを愛します。だがそれは「銘」を愛し、「人」を愛し、「極め」を愛しているのであって、美そのものを見つめているのではないのです。

普通であるということほど実際偉大なる場合はないのです。一般の人々は非凡なもののみ偉大であると思うほど平凡になっているのです。不思議にもそこには何の某という者がないのです。誰もがそれを作ったからです。

あの普通とか平凡とか蔑まれるその世界に、かえって美が宿されていることを物語ってくれるのです。

なぜ「下手」と云われるものに美が宿るか。普通の品たることにどうして美があるか、かかる美はいかなる社会を要求したか、いかなる経済を保障するか、その美がどんな関係を私達の生活に持ち来すか、なぜかつてできたのに今できないか、どうしたら未来にもできるか。これ等の疑問から大きな真理の展望が吾々の前に開かれてきます。

作る時代、用いる時代は過ぎて、今は省る時代へと移りました。すでに過去と現代とには、はなはだしい時間の間隔が生じたのです。私達は創作の時代を失うと共に、認識の時代へと入りました。

特に徳川期の半において、日本の民藝品はその絶頂に達したかの感があります。なぜその時代の茶人達がそれに冷かであったか。一つには見方が形式に捕われていたからですが、一つにはそれが当時のあまりに普通な品だったからです。盛に生産せられ、誰でも用いていたからです。あまり普通であり安ものであったから、人々はとりわけそこに美を見ようとはしなかったのです。花園に住むものはその香を忘れるに至ります。民衆は作るものが美しいことを知らずして作り、また美しいことを知らずして用いていました。

すべて美への認識は直観のことであって、「なぜ」という知的反省から美が認識されるのではないのです。その問いは何故恋人を恋するかという問いの愚かなのと同じなのです。「なぜ」というような二次的な理由で解されるものは、美への直接な知識とはなりません。直観においては観ることは思うことよりも先なのです。

今の歴史家には玉石に対する明確な区別がないのです。否、有名なものなら何でも讃辞を惜しまないのです。したがって上等の品物ならほとんど何でも美しいと書かれるのです。否、高貴な品と解されるもののみが歴史に入っているのです。

例えば「茶」に用いる鉢は何寸でなければならぬという如きは、あまりに不自由な考えです。それは茶室の大きさに準じて変えていいはずです。短くとも長くとも美しきものはこれを活かしたいのです。また活かす道が限りなく残っているのです。真の茶道は無限の形式と内容とに展開するものであっていいはずです。かかる自由さにこそ茶道の真の古格があると云えないでしょうか。

「型」とか「極め」とか「銘」とか、かかるものは美の本質的な標準とはなりません。それ等のものなくしても器の美に変異はないのです

「井戸」の茶碗を茶器だから褒めるのは、見方がまだ表面的です。私達はそれをかつて貧しい者が使った飯碗として一層讃えねばならないのです。「大名物」となるより前に、彼等は雑器であったのです。否、先にも云ったように民藝品であったからこそ「大名物」になり得たのです。

茶道の深さは清貧の深さなのです。茶器の美しさは雑器の美しさなのです。

風情には古格がよく残っています。だが今の料理にもう正格はありません。すでに都びて富者の客を待つばかりなのです。

私は新しい茶室によいのを見たことがありません。

「茶」の美は清貧の美なのです。今のように金に頼って数寄をこらす時、もう茶室は死んでしまいます。

茶室の美も云わば「下手」の美です。それは元来贅沢な建物ではなく、範を民家にとったのです。それも小さな貧しい粗末な室なのです。今も古格を保つ田舎家は美しい。あの納屋や、水肥小屋や、または井桁の小窓があけてある便所すらも、形が美しいではありませんか。私は特に朝鮮を旅する毎に、あの民家に茶室の美を見ない場合とてはないのです。あのきたないとか、むさくるしいとか、暗いとか、見すぼらしいとか云われる小さな田舎家こそ茶室の美の手本でした。

茶器も茶室も民器や民家の美を語っているのです。だがこの清貧は忘れられて、茶道は今や富貴の人々の玩びに移ったのです。茶器は今万金を要し、茶室は数寄をこらし、茶料理は珍味をととのえています。かくなった時すでに茶の道があるでしょうか、あり得るでしょうか。

私は民藝の美を最初に見つめた人として、初代の茶人達を偉大な先駆者と呼びたいのです。

あえて「初代の茶人達」と云います。私は紹鴎とか利休とかを指して云うのです。ややおくれては光悦の如き例外を多少は挙げ得るでしょう。

私は民器の美をはっきりと最初に見届けた人々が、日本人だということに、抑え得ぬ誇りと悦びとを感じます。彼等には工藝の美に対する真に稀有な直観と、卓越した鑑賞とがありました。

日本の陶工の中で、作からいって一番傑出している一人は穎川です。私は彼の赤絵の素敵な美しさに心を引かれます。個人陶であり在銘陶でありますから、必然上手物なのです。


正しい労働はただ協団においてのみあり得るのであると。よき作は仕事への精進と、創造の自由とを切要します。単なる労働の苦痛から何の美が現れましょうや。

用い難いもの、用に堪えぬもの、それは器ではなく、器の資格はなく、器の意味がないのです。それ故器の美しさもありません。工藝においては用美一如です。

なぜ貴族的な品が多く病いに罹るのでしょうか。用を務めないからです。働き手ではないからです。それは多く床に据えられて働くことを厭っています。働くにしては余りに着飾り過ぎているのです。錯雑さがなぜ美を乏しくするか。それは働くに邪魔だからです。働かずば必然体は弱くなります。彼等はおおむね繊弱なのです。錯雑を去り華美を棄て、すべての無駄をはぶいて、なくてならぬもののみ残ったもの、それが民藝品の形であり色であり模様なのです。「なくてならぬもの」、これこそ美の基礎であると云えないでしょうか。

工藝の美を決定するものは、それがどれだけ美的に作られているかということではなく、それがどれだけ用途のために作られているかということであると。

今の人々はこぞって在銘のものを愛します。だがそれは「銘」を愛し、「人」を愛し、「極め」を愛しているのであって、美そのものを見つめているのではないのです。

不思議にもそこには何の某という者がないのです。誰もがそれを作ったからです。

普通であるということほど実際偉大なる場合はないのです。一般の人々は非凡なもののみ偉大であると思うほど平凡になっているのです。

あの普通とか平凡とか蔑まれるその世界に、かえって美が宿されていることを物語ってくれるのです。









新しいモノの見方を与えてくれた本となりました。
工芸品には確かに普通さ、用途にこだわってこそ美に適合するのかと思いました。

また、「「茶」の美は清貧の美なのです。今のように金に頼って数寄をこらす時、もう茶室は死んでしまいます。」という文も印象に残りました。
今の茶室についてぼくはよく知らないのですが、それでもお金をかけてあるものはそれなりの見栄えが一般の目からは美しくみえるのでしょうね。

この本を読んだ後では、ちょっと違う角度から茶室や民芸について考えることができそうに感じました。

ある自殺者の手記 (モーパッサン ギ・ド)

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世間の人は大きな苦悶や悲歎を探し出そうとして、自殺者の生涯をいたずらに穿鑿する。だが、多くの人が自殺をするのは、以上の手記にあるようなことに因るのであろう。

記憶は既に生存していないものに生命をあたえる

食ったものが好く消化れれば物がたくさん食えもする(何と云ってもこれが人間最大の幸福なのだ。)病弱な胃の腑は人間を駆って懐疑思想に導く。無信仰に誘う。人間の心のなかに暗い思想や死を念う気持を胚胎させるものだ。私はそうした事実をこれまでに幾度となく認めて来た。今夜食べたものが好く消化していたら、私もおそらく自殺なんかしないで済んだろう。

家へ帰って来て錠前の穴に鍵をさし込む時のそのさし込みかた、自分がいつも燐寸を探す場所、燐寸の燐がもえる瞬間にちらッと部屋のなかに放たれる最初の一瞥、――そうしたことが、窓から一と思いに飛び降りて、自分には脱れることの出来ない単調なこれらの出来事と手を切ってしまいたいと私に思わせた。

三十年このかた同じ場所に置いてある家具のいつ見ても変らぬ恰好、新らしかった頃から知っている肱掛椅子の擦り切れたあと、自分の部屋の匂い(家というものには必ずその家独特の匂いがあるものだ)そうしたことが、毎晩、習慣というものに対して嘔吐を催させると同時に、こうして生きてゆくことに対して劇しい憂欝を感じさせたのである。 何もかもが、なんの変哲もなく、ただ悲しく繰返されるだけだった。

私はこれで元は快活な人間だったのである! 何を見ても嬉しかった。途ゆく女の姿、街の眺め、自分の棲んでいる場所、――何からなにまで私には嬉しくて堪らなかった。私はまた自分の身につける洋服のかたちにさえ興味をもっていた。だが、年がら年じゅう同じものを繰返し繰返し見ていることが、ちょうど毎晩同じ劇場へはいって芝居を観る者に起きるように、私の心をとうとう倦怠と嫌悪の巣にしてしまった。

私にはこの数年来一つの現象が起きているのだ。かつて私の目には曙のひかりのように明るい輝きを放っていた人生の出来事が、昨今の私にはすべて色褪せたものに見えるのである。物ごとの意味が私には酷薄な現象のままのすがたで現れだした。愛の何たるかを知ったことが、私をして、詩のような愛情をさえ厭うようにしてしまった。

。だが、私はこの幾行かの手記を読む人々のために書いているのではない、ともすれば弱くなりがちな自分の勇気をかき立て、今となっては、遅かれ早かれ決行しなければならないこの行為が避け得べくもないことを、我とわが心にとくと云って聞かせるために綴るのだ。

夜も更けた、もう真夜中である。私はこの手記を書いてしまうと自殺をするのだ。なぜだ? 私はその理由を書いてみようと思う

この手記は鋭い神経をもつ人や感じやすい者のみに解るような悲惨な最後の理由を述べ尽しているのである。






個人的にも自殺者の理由を詮索するのは、身近な人だけで良いと思っています。
テレビは自殺者が望むのであればその模様を公開すればいいけど、基本的に勝手に詮索しないでしないと思います。


この手記の主は平凡に殺されたのですね。



ザボンの実る木のもとに (室生 犀星)

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そなたたづねてすずめのお宿

ひとみは真珠

ふぢ子の容貌はきれいでよい瞳をもつた此れまで私のなじんだことのない尊い多くのものをもつてゐました。

「指きりつてなあに。」「約束をまちがへないつて証拠だよ。」

山の手あたりの日ぐれ時なぞに通りすがりに色白な女の童の、なにか知らひとりであそんでゐるのを見ます。非常に鮮かな美しさを感じます。それを生んだものがつくづく人間であることがふしぎに思はれます。 女の童については美しい菓子をたべるやうな心で眺められるのであります。

大きな新緑のかたまりのやうなあたらしさ





なぜか指きりという言葉がとても新鮮に聞こえたのでした。

そういえば、最近、といっても大人になって、指切りなんてしてないような気がします。
大人の世界でも口で約束するだけじゃなくて、指切りなんてしてみたらちょっとおもしろいんじゃないか、なんて思いました。
お互いの指と指が触れることで、約束を守るという意識が強化されるような。

どうもでもいいですね。
駄文でした。


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Hiro

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読んだ本の記録。忘れたくない言葉。

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