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蟹工船 (小林 多喜二)

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そして、「組織」「闘争」――この初めて知った偉大な経験を担って、漁夫、年若い雑夫等が、警察の門から色々な労働の層へ、それぞれ入り込んで行ったということ。

そして、彼等は、立ち上った。――もう一度!

「俺達には、俺達しか、味方が無えんだな。始めて分った」「帝国軍艦だなんて、大きな事を云ったって大金持の手先でねえか、国民の味方? おかしいや、糞喰らえだ!」

、俺達がこの一夏ここで働いて、それで一体どの位金が入ってくる。ところが、金持はこの船一艘で純手取り四、五十万円ッて金をせしめるんだ。

――今、殺されているんでねえか。小刻みによ。

湯灌をしてやるために、着物を解いてやると、身体からは、胸がムカーッとする臭気がきた。そして無気味な真白い、平べったい虱が周章ててゾロゾロと走り出した。鱗形に垢のついた身体全体は、まるで松の幹が転がっているようだった。胸は、肋骨が一つ一つムキ出しに出ていた。脚気がひどくなってから、自由に歩けなかったので、小便などはその場でもらしたらしく、一面ひどい臭気だった。褌もシャツも赭黒く色が変って、つまみ上げると、硫酸でもかけたように、ボロボロにくずれそうだった。臍の窪みには、垢とゴミが一杯につまって、臍は見えなかった。肛門の周りには、糞がすっかり乾いて、粘土のようにこびりついていた。

共同便所の中にあるような猥褻な落書

そして、ただ、無性に帰りたかった。

彼等はその何処からでも、陸にある「自家」の匂いをかぎ取ろうとした。乳臭い子供の匂いや、妻のムッとくる膚の臭いを探がした。

中積船は漁夫や船員を「女」よりも夢中にした。この船だけは塩ッ臭くない、――函館の匂いがしていた。何カ月も、何百日も踏みしめたことのない、あの動かない「土」の匂いがしていた。

その日、監督は鶏冠をピンと立てた喧嘩鶏のように、工場を廻って歩いていた。

大部分は監督にそう云われると日本人はやはり偉いんだ、という気にされた。そして自分達の毎日の残虐な苦しさが、何か「英雄的」なものに見え、それがせめても皆を慰めさせた。

監督も、雑夫長も病人には、継子にでも対するようにジリジリと陰険だった。

子供が汚い手をすぐ着物に拭くように、袢天の裾にぬぐう

どの坑夫も、長く監獄に入れられた人のように、艶のない黄色くむくんだ、始終ボンヤリした顔をしていた。日光の不足と、炭塵と、有毒ガスを含んだ空気と、温度と気圧の異常とで、眼に見えて身体がおかしくなってゆく。「七、八年も坑夫をしていれば、凡そ四、五年間位は打ッ続けに真暗闇の底にいて、一度だって太陽を拝まなかったことになる、四、五年も!」

「マグロ」の刺身のような労働者の肉片が、坑道の壁を幾重にも幾重にも丈夫にして行った。都会から離れていることを好い都合にして、此処でもやはり「ゾッ」とすることが行われていた。トロッコで運んでくる石炭の中に拇指や小指がバラバラに、ねばって交ってくることがある。女や子供はそんな事には然し眉を動かしてはならなかった。そう「慣らされていた」彼等は無表情に、それを次の持場まで押してゆく。――その石炭が巨大な機械を、資本家の「利潤」のために動かした。


鉱山でも同じだった。――新しい山に坑道を掘る。そこにどんな瓦斯が出るか、どんな飛んでもない変化が起るか、それを調べあげて一つの確針をつかむのに、資本家は「モルモット」より安く買える「労働者」を、乃木軍神がやったと同じ方法で、入り代り、立ち代り雑作なく使い捨てた。鼻紙より無雑作に!

内地では、労働者が「横平」になって無理がきかなくなり、市場も大体開拓されつくして、行詰ってくると、資本家は「北海道・樺太へ!」鉤爪をのばした。其処では、彼等は朝鮮や、台湾の殖民地と同じように、面白い程無茶な「虐使」が出来た。然し、誰も、何んとも云えない事を、資本家はハッキリ呑み込んでいた。「国道開たく」「鉄道敷設」の土工部屋では、虱より無雑作に土方がタタき殺された。虐使に堪えられなくて逃亡する。それが捕まると、棒杭にしばりつけて置いて、馬の後足で蹴らせたり、裏庭で土佐犬に噛み殺させたりする。それを、しかも皆の目の前でやってみせるのだ。肋骨が胸の中で折れるボクッとこもった音をきいて、「人間でない」土方さえ思わず顔を抑えるものがいた。

皆はハッキリした焦点もなしに、怒りッぽくなっていた。

「どうしたら、ええんだ!」――終いに、そう云って、勃起している睾丸を握りながら、裸で起き上ってきた。大きな身体の漁夫の、そうするのを見ると、身体のしまる、何か凄惨な気さえした。度胆を抜かれた学生は、眼だけで隅の方から、それを見ていた。 夢精をするのが何人もいた。誰もいない時、たまらなくなって自涜をするものもいた。――棚の隅にカタのついた汚れた猿又や褌が、しめっぽく、すえた臭いをして円められていた。

漁夫達はだんだん内からむくれ上ってくる性慾に悩まされ出してきていた。四カ月も、五カ月も不自然に、この頑丈な男達が「女」から離されていた。――函館で買った女の話や、露骨な女の陰部の話が、夜になると、きまって出た。一枚の春画がボサボサに紙に毛が立つほど、何度も、何度もグルグル廻された。

蟹の甲殻の片を時々ふむらしく、その音がした。 ひそめた声が聞こえてきた。 漁夫の眼が慣れてくると、それが分ってきた。十四、五の雑夫に漁夫が何か云っているのだった。何を話しているのかは分らなかった。後向きになっている雑夫は、時々イヤ、イヤをしている子供のように、すねているように、向きをかえていた。それにつれて、漁夫もその通り向きをかえた。それが少しの間続いた。漁夫は思わず(そんな風だった)高い声を出した。が、すぐ低く、早口に何か云った。と、いきなり雑夫を抱きすくめてしまった。喧嘩だナ、と思った。着物で口を抑えられた「むふ、むふ……」という息声だけが、一寸の間聞えていた。然し、そのまま動かなくなった。――その瞬間だった。柔かい靄の中に、雑夫の二本の足がローソクのように浮かんだ。下半分が、すっかり裸になってしまっている。それから雑夫はそのまま蹲んだ。と、その上に、漁夫が蟇のように覆いかぶさった。それだけが「眼の前」で、短かい――グッと咽喉につかえる瞬間に行われた。見ていた漁夫は、思わず眼をそらした。酔わされたような、撲ぐられたような興奮をワクワクと感じた。

それは聞いている方の頭が、かえってごじゃごじゃになってしまうような、順序の狂った日本語だった。言葉と言葉が酔払いのように、散り散りによろめいていた。

漁夫は何時でも「安々と」死ぬ覚悟をすることに「慣らされて」いた。

その情景は、漁夫達の胸を、眼のあたり見ていられない凄さで、えぐり刻んだ。

「やっぱし炭山と変らないで、死ぬ思いばしないと、生きられないなんてな。――瓦斯も恐ッかねど、波もおっかねしな」

唇の色が青インキをつけたように、ハッキリ死んでいた。

蟹工船は「工船」(工場船)であって、「航船」ではない。だから航海法は適用されなかった。二十年の間も繋ぎッ放しになって、沈没させることしかどうにもならないヨロヨロな「梅毒患者」のような船が、恥かしげもなく、上べだけの濃化粧をほどこされて、函館へ廻ってきた。日露戦争で、「名誉にも」ビッコにされ、魚のハラワタのように放って置かれた病院船や運送船が、幽霊よりも影のうすい姿を現わした。

蟹工船はどれもボロ船だった。労働者が北オホツックの海で死ぬことなどは、丸ビルにいる重役には、どうでもいい事だった。資本主義がきまりきった所だけの利潤では行き詰まり、金利が下がって、金がダブついてくると、「文字通り」どんな事でもするし、どんな所へでも、死物狂いで血路を求め出してくる。そこへもってきて、船一艘でマンマと何拾万円が手に入る蟹工船、――彼等の夢中になるのは無理がない。








久々に無茶苦茶おもしろいと感じた本でした。
この蟹工船の中で行われる残虐な監督の半殺人行為(ほぼ殺人行為)は、
心理学の研究として一般人を空の刑務所に集め、彼らを看守役と囚人役に分けて
一週間生活をさせるという映画「es」を思い出させました。
非常に限られた、隔離された空間の中で、服従関係は人の心を縛り上げ、普通の感覚を麻痺させていくのですが、
この本はそれに近いと思いました。並々ならぬ興奮感がそこらへんの本にはないのでした。


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死 (アルチバシェッフ ミハイル・ペトローヴィチ)

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何もかも今まで思つてゐたやうに単純なものではないな。驚嘆すべき美しさを持つてゐる。

かうして平気で一日一日と生きて暮らしてはゐる様なものの、どうせ誰でも死ななくてはならないのだ。それなのになんの為めにいろんな事をやつてゐるのだらう。苦労をするとか、喜怒哀楽を閲するとかいふことはさて置き、なんの為めに理想なんぞを持つてゐるのだらう。明日は己を知つてゐるものがみな死んでしまふ。己が大事にして書いてゐるものを鼠が食つてしまふ。それでなければ、人が焼いてしまふ。それでおしまひだ。その跡では誰も己の事を知つてゐるものはない。この世界に己より前に何百万の人間が住んでゐたのだらう。それが今どこにゐる。己は足で埃を蹈んでゐる。この埃は丁度己のやうに自信を持つてゐて、性命を大事がつてゐた人間の体の分壊した名残りだ。土の上で、あそこに火を焚いてゐる。あれが消えれば灰になつてしまふ。併しまた火を付けようと思へば付けられる。併しその火はもう元の火ではない。丁度あんなわけで、もう己のあとには己といふものはないのだ。かう思ふと脚や背中がむづむづして来る。


わたくしの申したのは、詰まり人生は死刑の宣告を受けてゐると同じものだと見做すと云ふのです。

人は何物をも自己以上に愛するといふことはないのです。

人間は誰でも死刑の宣告を受けたものと同じ境界にゐるのです。

何もかもひどく清潔で、きちんとしてある。その為めに却つて室内が寒さうに、不景気に見えてゐる。








人間は自分以上に何かを愛せることはない、というのは真理だと思うのですが、
本当にそうであれば、ちょっと寂しい気もするのでした。

福沢諭吉 ペンは剣よりも強し (高山 毅)

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慶応義塾のわかい学生たちは、ふるい十九世紀をおくり、あたらしい二十世紀をむかえるために、一九〇〇年十二月三十一日、にぎやかな会をひらきました。そのうちに夜はあけて、一月一日、年始のあいさつにきた人々に、諭吉はいいました。「いよいよ二十世紀だ。十九世紀の日本は、封建制度がつづき、これをなくするために、ずいぶん、ごたごたした世の中だった。けれども、日本はあたらしい世の中をむかえたのだ。ふるいことはみんなわすれさって、かくごをあらたにしてがんばろうではないか。」 諭吉の目はあかるくかがやき、希望にみちた顔は、とてもわかわかしくみえました。ですから、「福沢先生は、元気になられた。」と、だれもがあんしんをし、よろこんだのでした。 ところが、その一月もおわりにちかいころ、諭吉は、きゅうに病気でたおれました。脳出血が、ふたたびおこったのでした。そうして二月三日、とうとうその一生をおわりました。

諭吉は、くんしょうだの、しゃくい(きぞくのくらい)だのというものが、だいきらいでした。くんしょうをぶらさげていても、どうということはないとおもっていましたし、明治になって、やっと身分からかいほうされたのに、またまた、しゃくいをつくって、身分のくべつをつけるというのは、こっけいなことだとおもっていたからです。

子どもたちは自由でかっぱつであったほうがいい、と諭吉はかんがえていましたから、おくさんともよくはなしあったうえ、きるものはそまつにしても、えいようだけはじゅうぶんにとらせるように気をつけました。 ですから、家の中で、子どもがあばれまわっても、いっこうにしかりません。勉強よりも、からだをじょうぶにすることのほうがだいじだ、と諭吉はかんがえていたからです。そこで、子どもが、八、九さいになるまでは、おもうままにあばれさせて、からだをじょうぶにすることだけを、いちばんのもくひょうにしました。七、八さいになると、はじめて勉強をさせることにしましたが、もちろん、からだのことは、いつも気をつけました。

自分の考えどおりにものごとをおこなうのが、ほんとうに男らしい人間なんだ。

しっかりとひとりだちをして、自分をたっとぶという精神がない。これでは、日本はひらけない。

地位とか家がらとか、お金のあるなしで、さべつがつけられてはならないというのです。そうして、かりに、人間としてとうといとか、いやしいとかのくべつがあるとするならば、それは学問をしたか、しないかのちがいであるから、だれでも学問をするようにどりょくしようではないか、というのでした。 その学問というのは、ただむずかしい文字をおぼえたり、わかりにくいふるくさい文章をよんだり、和歌をよんだり、詩をつくったりするようなことではなく、「人間ふつう日用にちかき実学」だといいました。そうでない学問は、なぐさみの学問にすぎないというわけでした。

諭吉が本をかくのは、日本人の考えかたをあたらしくするのがもくてきでしたから、できるだけやさしい文章をかくようにどりょくしました。そうしてできあがった文章は、ばあやによんできかせて、わかるかどうかをたしかめてから、はっぴょうするというやりかたでした。 諭吉のかいた本はたくさんありますが、その中でゆうめいなのは、「西洋事情」「世界国尽」「学問のすすめ」などです。これらの本は、どれもやさしくていねいに、だれにでもわかるようにかかれていたので、ひっぱりだこで、人々によまれました。

諭吉は、慶応義塾であたらしい教育をし、「文部省は竹橋にあり、文部大臣は三田にいる。」と、せけんでいわれたほど

中津は、ふるさとでもあるし、しんるいやしっている人もおおいので、気をゆるしていました。ところが、この町でも、諭吉はねらわれていたのです。 諭吉のまたいとこに、増田宋太郎という青年がありました。十三、四さいばかり年が下で、家もちかく、朝ばん、にこにこしてやってくるので、諭吉は、「宋さん、宋さん。」とよんで、したしくつきあっていました。この宋さんが、じつは、諭吉のようすをさぐるためにやってきていたのでした。

諭吉は、三田に慶応義塾をうつしたとき、自分のすむ家もたてましたが、大工にたのんで、家のゆかをふつうよりたかくして、おし入れの中からゆか下へもぐってにげだせるようにしました。それは、そのころ、ふるい考えをもつ人が、西洋のあたらしい学問をしているゆうめいな人をころすことがはやっていたからです。慶応義塾をひらいた諭吉は、しだいにひょうばんのまとになってきたので、日ごろから、けいかいをしていたわけでした。

もしも、そのあたらしい政府が、外国をきらい、外国人をおいはらえといいだしたなら、どうなるでしょうか。外国と戦争をひきおこすようなことになり、よわくて小さい日本は、つよくて大きい外国に、うちまかされてしまうにちがいありません。

(国民のみんなが、世界のようすをよくしり、日本が、どんなに文明におくれているかがわかったならば、きっと、ゆうきをふるいおこして、あたらしく力づよい日本をつくろうと、どりょくするにちがいない。それには、国民が、もっとものしりにならなければならない。そうだ、国民を教育しなければだめだ。よし、わたしは、その教育者になろう。

いっしょに西洋の学問をまなんだ村田でさえ、このように外国人をおいはらえというありさまですから、いよいよ、自分のことばやおこないに気をつけて、このあらしの時代を生きていかなければならないと、かくごをしました。


日本ではあべこべに、外国人をおいはらえといううんどうがさかんになり、諭吉のように、外国の本をよみ、ヨーロッパがえりの人間だといえば、いつ、なにをされるかわからない、ぶっそうな世の中になっていました。
西洋の学問をしていた人々は、いつも、こんな思いをくりかえしていたのです。まことに、あぶない世の中でした。

薩摩(いまの鹿児島県)のとのさまの行列が、江戸をたって国へかえることになり、東海道の生麦村(いまは横浜市内)をとおっていたとき、横浜にきていたイギリス人がうまにのってやってきて、ばったりぶつかったのです。
そのころ、大名行列といえば、道ばたの家は雨戸をおろし、とおりかかったものは道をよけて、とおくから土の上にすわって、とのさまののったかごをおがまなければならないほどでした。そんなことをイギリス人はしりませんから、行列をよこぎろうとしたのです。それを、ぶれいものというので、きりころしてしまいました。

そのころの日本の国内では、外国人をおいはらえといううんどうがさかんで、外国人をただむやみにきったりきずつけたりするじけんが、いくつかおこった

諭吉は、西洋の本をたくさんよんでいたので、だいたいのようすはしっていたのですが、じっさいに目でみるのははじめてです。そうして、百聞は一見にしかず、ということわざのとおりだと、つくづくかんじました。 日本ではとても高価なじゅうたんが、部屋いっぱいにしきつめてあって、アメリカ人がその上をくつのまま、へいきであるいているのにもおどろきましたが、どの家にもガス灯がついていて、夜も昼のようにあかるいのを、うらやましくおもいました。また、いろいろのあつまりで、アメリカ人が、男と女と手をくんでダンスをやるのをみて、びっくりしました。

「でも、くよくよしていてもはじまらぬ。よし、こんどは英語の勉強をするんだ。」 諭吉は、そのつぎの日から、英語の勉強にとりかかりました。 とはいっても、いったい、どこで、だれに英語をおそわったらいいのか

五、六年もかかって、いっしょうけんめい勉強したオランダ語が、なんの役にもたたないことを、じっさいにしって、がっかりさせられた

夕食をすますと、すぐ一ねむりして、夜の十時ごろに目をさまし、それからずっと本をよみます。明けがた、台所のほうで朝食のしたくのはじまる音をきくと、もう一どねむり、朝食ができあがるころにおきて、すぐ朝ぶろにいき、かえって朝食をすますと、また本をよむといったありさまでした。

かたちやていさいだけにこだわる役所のやりかたをばかばかしく

江戸幕府は、それまで、およそ三百年ちかくのあいだ、外国とのつきあいをせず、品物のとりひきなどもしないことにしていました。ですから、世界の国々のようすは、なにもわかりませんし、また、どうなっているかをしろうともしませんでした。これを「鎖国」といいます。つまり、国をとじて、外国をしめだしてしまったわけでした。ただ、中国とオランダとだけは、長崎でぼうえきをすることがゆるされていました。 なぜ、幕府が国をとざしたかといいますと、それは、キリスト教が日本にはいってくるのをおそれたからでした。中国とはとなりどうしで、まえまえからのつきあいであり、キリスト教の国ではないから、そのままつきあったのですが、オランダとは、キリスト教を日本へひろめないというやくそくで、ぼうえきをしていました

この町をとびだして、すこしでも自由なところにいかなければ、一生、このままでおわってしまう、と諭吉はしみじみとかんがえるようになりました。

十五、六さいごろになると、諭吉は、ふるいおきてや、わるいならわしにたいして、まえよりもいっそう、ぎもんをもつようになりました。身分のちがいということは、子どもどうしの中にもあったからでした。第一に、ことばづかいがちがうのです。諭吉たち下っぱの家のものは、身分の上の家の子にむかっては、「あなたが、ああおっしゃった、こうなさった。」と、ていねいにいわなければならないのにたいして、あいては、「きさまは、ああいった、こうしろ。」といったちょうしです。

さむらいの家に生まれたものは、どんなにつまらない人間でもさむらいになり、いばることができました。町人やひゃくしょうの子どもは、いくらすぐれた人間でも、さむらいにはなれませんでした。また、さむらいの中でも、身分のたかいものと、ひくいものとにわけられていて、身分のひくいさむらいの子は、身分のたかいさむらいの子より上の役目につくということは、ゆるされませんでした。

これまで女こじきをいたわるお母さんを、ふうがわりなお母さんだとおもっていたのですが、人間は、わけへだてなくしんせつにしなければならないということがわかり、「お母さんはえらいな。」と、あらためてお母さんをそんけいしたくなりました。

兄さんは、わたしに勉強しろというんですか。いやなことだ。勉強なんて、わたしはだいきらいです。」「では、きくが、おまえは、これからさき、なんになるつもりだ。」「そうですね。まあ、日本一の大金持ちになって、おもうぞんぶんお金をつかってみたいものですね。」

諭吉は、このように、自分でなっとくのできないことについては、自分でじっさいにためしてみるという、しっかりした少年でした。おまけに手さきがきようなので、家ではたいへんちょうほうがられていました。

神さまのばちがあたるなどということは、ありはしないのだということを、諭吉ははっきりとしることができました。

福沢諭吉は、ながい封建制度にならされた人々を目ざめさせるのは、学問しかないと、けわしい教育者の道をえらびました。






自分の無知を恥じた上で言いますが、この本を読んで初めて福沢諭吉がとても偉大な人だということが分かりました。
今まで1万円札のちょっと怖そうな人、というイメージしかなかったのですが、読後はすごくカッコイイなと思いました。
もちろん彼の良い面ばかり書いているので、何とも言えませんが成し遂げたことは大きすぎるほど大きいもので、時代に負けず戦われた勇敢さはあっぱれ。
こういう人間に自分もなりたいものだと思いました。

良本。



嘘の効用 (末弘 厳太郎)

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われわれの頭には嘘をいってはならぬということが、深く深く教えこまれています。 ところが、それほど深く刻みこまれ、教えこまれているにもかかわらず、われわれの世の中には嘘がたくさん行われています

実をいうと、全く嘘をつかずにこの世の中に生き長らえることは、全然不可能なようにこの世の中ができているのです。


そこで、われわれお互いにこの世の中に生きてゆきたいと思う者は、これらの嘘をいかに処理すべきか、というきわめて重大なしかもすこぶる困難な問題を解決せねばなりません。なにしろ、嘘をついてはならず、さらばといって、嘘をつかずには生きてゆかれないのですから。

私は法律家です。ですから、専門たる「法律」以外の事柄については――座談でならばとにかく――公けに、さも先覚者ないし専門家らしい顔をして、意見を述べる気にはなれません。

世の中の人々も、普通にその同じ間違いを繰り返して「専門家」の「素人考え」を不当に尊敬します。私は全く変だと思います。

欧米諸国の現行法はだいたいにおいて協議離婚を認めていません。離婚は法律で定めた一定の原因ある場合にのみ許さるべきもので、その原因が存在しない以上はたとえ夫婦相互の協議が成立しても離婚しえないことになっているのです。この点はわが国の法律と全く違ってきわめて窮屈なものです。
いかな西洋でもお互いに別れ話の決まった夫婦が、そうおとなしくくっつきあってるわけがありません。いかにバイブルには「神の合わせ給える者は人これを離すべからず」と書いてあっても、お互いに別れたいものは別れたいに決まっています。

法律は人間のために存するものです。人間の思想、社会の経済的需要、その上に立ってこそ初めて法は真に行われるのです。


「法」がむやみと厳重であればあるほど、国民は嘘つきになります。卑屈になります。「暴政は人を皮肉にするものです」。しかし暴政を行いつつある人は、決して国民の「皮肉」や「嘘つき」や「卑屈」を笑うことはできません。なぜならば、それは彼らみずからの招くところであって、国民もまた彼らと同様に生命の愛すべきことを知っているのですから。

人間はだいたいにおいて保守的なものです。そうして同時に規則を愛するものです。ばかばかしいほど例外をきらうものです。

人間は「公平」を好む。ことに多年「不公平」のために苦しみぬいた近代人は、何よりも「公平」を愛します。

われわれの結局進むべき路は「公平」を要求しつつ、しかも「杓子定規」をきらう人間をして真に満足せしめるに足るべき「法」を創造することでなければなりません。

いったい、私は、「文化」というものはある特殊の人にだけできる事柄を誰にも容易にできるようにすることであり、また学問はそれを容易にできるようにする手段であると考えている。


われわれは「尺度」を欲する。しかも同時に「伸縮する尺度」を要求する。実をいえば矛盾した要求です。しかも人間がかくのごときものである以上、「法」はその矛盾した要求を充たしうるものでなければなりません。






「好きなタイプは嘘をつかない人」なんてよく言いますが、この本にあるとおり、
嘘をつかなければ生きられない世の中になっているのですから、「好きなタイプは上手に嘘がつける人」なんて
言ったほうが正しいのかもしれないと思いました。

人間は矛盾が嫌いなようで、矛盾を愛しているような、読みながらそんな気がしました。

乞はない乞食 (添田 唖蝉坊)

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さて皆さん、落ついて考へて下さい。かの見苦しい男は、けっして乞ふてはゐないのです。ただひとり言を言って歩いてゐるだけの話です。 それを見て、おせっかいな人が、もしくは慌て者が、得々として慈善心をほころばせて財布を開ける。と、皆々これに倣ふ、といふ筋書です。これは素敵な台本です。 この男は、「慈善心を食ふ」ことを知ってゐる利巧な奴です。恐ろしい名優です

宇宙が丸いものか四角いものか知ってる者はまだ誰もありはしない。だから人間は嘘をついても大丈夫だ。博士だとか教授だとかいふ者はみんな嘘をついておまんまにありついてゐるのだね。

ほんとだよ、乞食だッて三菱だッて変りゃアないんだよ。寝て、起きて、飯を食って、女を抱いて、酒を飲んで、何をするッたッて、それ以上のことができるわけのもんぢゃないからねエ

君らは何んでも社会的事象の表面ばかりしか見ないから駄目なんだよ、ウン……乞食ッたってこれは立派な職業だよ

世の中の行進は、科学的に小細工を積み重ねてゆくんだから、みんな科学者にならなければ駄目だ。でなければ引ッ込んで瞑想家になるか、浅草の乞食になるかだよ」

かれらはけっして自ら乞ふてはゐないのである。しかも、十分にその目的を達し得てゐるから愉快である。






バンクーバーにも毎日たくさんとは言いませんが、ホームレスの人たちを見ない日はありません。
彼らは人通りの多いところで眠り、起き、お金を通行人が落としてくれるのを待っているのですが、
きっと彼らも最低限の生きていくお金やものを手に入れているのでしょう。
十分にその目的を毎日達して得ているのだろうと、なんとも小気味よくも思えました。

本の未来 (富田 倫生)

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手に取った本は、私もしょっちゅうあとがきから開く。 姿勢を正した本文からはうかがえない等身大の書き手が、ひょっこり顔をのぞかせていたりするのが面白い

書物の本質は、言葉によって綴られるこの物語を、一まとめにしておさめておく器です。

我々は体験したり聞き及んだりする出来事を、言葉によって物語ってはじめて胸におさめ、安心を得る生き物です。「あれがこうだから、そうなり、結局こうなった」という起承転結のドラマは、我々の精神を持続的に立たせる支柱です。

パーソナルコンピューターの未来を切り開いたアラン・ケイは「未来を予測する最良の方法は、それを発明してしまうことである」と語っています

段階を踏んで成長を遂げてきたインターネットを、一九九〇年代に入って急成長させたのは、WWWでした。各国に関連の施設を持つ、欧州原子核共同研究所(CERN)で、「知識の共有システムを作ろう」として始まった作業がきっかけです。

インターネットの成り立ちに触れた本を読むと、その多くが「アメリカの軍用ネットワークが起源だった」と書いています。核攻撃を受けて通信線の一部が途絶えても、全面的なコミュニケーションの途絶に陥らないよう備えた、網の目状の〈打たれ強い〉通信網が原点だったと言うのです。

安渓さんの本が育まれるまでには、十年に及ぶ聞き取りの努力がありました。言葉を吐き出すことが先に目的としてあったのではなく、人の心に潜りこんで生活の実相を記録する長期に渡る実践があり、やがてそれが一つのまとまりを持った言葉に変わる時を得たのです。それを軽々しく、「簡単に本が出せる」などと言ってくれるなという、胃袋に重い指摘でした。



書き残していかなければいけないこと、今そうしなければ永久に失われてしまうものがいっぱいあります。出版社に任せていては、それは手遅れになってしまうでしょう

日常を揺さぶってみたい。

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた」

フロッピーディスクの五百倍近い容量を持つCD―ROM

マルチメディアというぶよぶよとした概念

人間として私達が世に送りだすすべてが祝福されるものばかりではない、しかしその中にも忘れさることの出来ない大切なことが消えずに残されています。

地域の経済の柱だった造船所を移転で失ってから、この町はすっかり肩を落とし、息をひそめるように生き永らえてきた。町内会の知らせは八十まで生きた年寄りの訃報ばかりで、たくさんのネコが暗い目で欠伸をかみ殺し合っていた。久しぶりに戻ったセピア色の町は雨の中で、紫陽花だけにぽつんと青が浮かんでいた。

「免疫という、中世まで恩寵として捉えられた生命反応を司る分子が、実は、さまざまな作用を持った曖昧な分子であった。それは、炎症とか癌とか神経の成長、さらに造血などにも介入している。ここでインターロイキン(インターフェロンをふくむ、免疫細胞や白血球が作る生物活性物質の総称―注・富田)は、その多目的性、曖昧性、冗長性という本性を現わし、はるかに免疫現象を超えてしまうのである。その先に広がるのは混迷なのか、想像を超えた調和なのか」(『免疫の意味論』)

免疫学者の多田富雄が書いた『免疫の意味論』を読んだときには、自分の身体で体験した狂ったオーケストラの大音響に、別の角度から強い光を与えられた気がして、「ああそうなのか」と深くため息をつきました。

いっぱしの仕事中毒のような暮らしを、心の奥では少し得意になって続けていた

今回ツールキットのマニュアルを読んで初めて知ったが、英語の編集の世界にもこうした審美の物差しがある。パラグラフの最初の一行が頁の最後にくるのはオーファン(孤児)、パラグラフの最後の一行が頁の頭にくるのはウィドウ(後家)と呼ばれ、共にみっともないこととされている。

編集者の世界には、特有の美的基準がある。たとえば日本語では、括弧の受けや句読点が行の頭に来ることは許されない。また一文字だけ行の頭にはみ出すことは、首吊りと呼んで禁止事項に数えられることがある。

「これからは本を画面で読むことにしよう」 ただ一言そう宣言することで、二千年近く紙の冊子に縛り付けられていた本というものを、エキスパンドブックは解き放とうとしていると感じました

ここで使っている「DTP」は、デスク・トップ・パブリッシングを略した用語です。そのまま日本語に置き換えれば、「机上出版」。本や雑誌作りにコンピューターを使ってもらおうと、小さな会社を起こしたばかりのポール・ブレイナードという人物が、一九八四年の秋と言いますから、マックが発表されてから半年余りたった時点で思いついた言葉です。

あらゆる種類の文章を、すぐにコンピューターで読むようになるとは思いません。ただし、参考図書をしょっちゅう引きながら読む、私にとっての英語のようなものや、原稿を書くために資料として読む文章、研究や仕事の関連で、内容をメモしたり要約したりしながら読むようなものに関しては、今後どんどんコンピューターに移っていくのではないか。

CD―ROMの製作原価は紙よりよほど安く付くはずなのに、むしろ電子辞書の定価は、おうおうにして従来のものよりも高くなっているありさまです。

平凡社の『大百科事典』は、一九八五(昭和六十)年六月に初版が出た時点で買いました。奥付を見ると、全十六巻予約特別定価が十一万八千四百円とあります。安い買い物ではありませんでした。 同社はすでに、この『大百科事典』をCD―ROM化しています。値上がりして十八万六千円になっている紙の版の価格を、当初CD―ROM版は大きく上回っていました。その後値下げになりましたが、それでもまだウインドウズ版の価格は、十四万九千三百五十円についています。 私が平凡社から買いたかったものは、『大百科事典』におさめられた情報です

エキスパンドブックと初めて出合った当時、私はこれらの参考図書を、紙の頁をめくって引いていました。しかし繰り返し参照するこうした類の知識は、本の形に仕上げる必要はない。むしろ本にしたのでは使いにくいという気持ちは、その頃から持っていました。

それぞれのパッケージには、エキスパンドブックを刊行する経緯をありのままに、かつ印象的な言葉で綴った、しおりが入っていました。誰もが彼らに、「コンピュータで読書したいなんて思う人がいるでしょうか?」と聞くとあり、「正直言って、まだ私たちにも確信が持てません」と、彼ら自身の気持ちが、迷いも含めてそのままに記してありました。

一九七〇年代に入ってから活版にとって代わったオフセットでも、まず原稿をそばに置いて、写真植字機のオペレーターが一字一字、文字を選んで写真に撮りました。一九八〇年代に入ってパーソナルコンピューターやワードプロセッサーで原稿を書くことが多くなると、工夫すればオペレーターによる作業を省けるようになりました。

詳細な索引は、「この本は重要な資料として繰り返し開かれる」という、著者の自信と誇りを表しているように見える。

後はプロの書き手としてある意味で〈強くなっていく〉しかないと考えました。 しっかりした原稿を書き続けて編集者たちに一目置かせ、そこからさらに手応えのある本を出していく。どうすれば本が売れるかは分からない。けれどちゃんとした本が書ければ、惨敗はないだろう。

「やはり本はいいな」

手書きでは、同じ人が同じ文字を書いたとしても一つひとつに微妙な差が出ます。こうした文字の揺らぎを、我々はメッセージとして受け取っているはずです。手書きの文字は常に微妙に揺れていて、時には疲労や感情のうねりによって大きく揺らぐ。意識するにしろしないにしろ、そうした変化を我々は感じとっています。 一方フォントには、揺れがありません。雰囲気は全ての文字で統一されていて、同じ文字はいつでも寸分違わない。こうした特徴のゆえに、私たちは揺らぎという要素をはじめから頭の外に追いやって、文章その物に意識を集中して読んでいけます。 文章の中味からすれば、字形の揺らぎはいわばノイズです。フォントで読むことは、騒音のない部屋で読書に集中するような効果を与えてくれます。一方手書きには、〈音〉がつきまとっています。慣れないくずし字や乱暴な文字は、読書の妨げとなる騒音です。

書くことで自分と距離を取ってこそ、感情の激しい波の下に潜り込み、底に潜んでいる本質を見つめられます。

人は言葉で語って初めて、体験を腹におさめます。

書きながら考え、書き上げたものをさらして批判を受ける。そこからもう一度考えていく中で、自分自身を高め、状況に働きかける力を養っていく。

これに対し鈴木は、綴方をより深くとらえようとしました。「単なる文字上の表現を練習するための学科ではない。私は綴方を、人そのものを作りととのえる、『人間教育』の一分課として取扱っている」(『綴方読本』

一八七二(明治五)年に学制が定められた当初から、文章を書かせることは小学校における国語教育のテーマとして組み込まれていました。国が示したその目的は、見聞きしたことや暮らしの中で必要なことを、簡単、明瞭に書かせることです。

私が大学に籍を置いていた一九七〇年代の前半は、この謄写版に、長かった役割を終える兆しが見え始めた時期でした。一九七一(昭和四十六)年に大学に入ったとき、すでに図書館には普通紙複写機が設置してあり、学校の周辺にはコピー屋も見られました。いちいち原紙を切らなければならないガリ版に比べれば、ボタン一押しで複写が取れるコピー機は、実に便利です。ただし在籍していた大学の図書館の一枚十円は例外的な馬鹿安で、普通の大学では三十円、町場のコピー屋では五十円ほどもしていました。国電の初乗りが、三十円だった時期の話です。便利ではありましたが、同じ原稿をまとまった枚数複写する際は、コピーは高嶺の花でした。それが七〇年代をかけて、コピーの値段はずいぶん安くなっていきました。ゼロックスの特許に触れない技術の開発にキヤノンが成功し、一九七〇(昭和四十五)年には、国産初の普通紙複写機が同社から発売されます。

紙にはさんで筆圧で複写をとるカーボン紙の特許は、すでにイギリスで一八〇六年に成立しています。

ただし、ごくわずかではありましたが、読者から寄せられた感想の言葉には、十年分のクリスマスプレゼントをまとめてもらったほど、胸が大きく鳴りました。

出来上がってきた小さな本は、そっと包んだてのひらを暖めながら、にこにこ微笑んでくれました。

挫折と沈滞を余儀なくされていた一つの時代精神が、パーソナルコンピューターという革命児を産み出したのではないか

あなたには、書きたい本がありますか? 私にはありました。

住む場所を決める際に私はいつも、図書館に近いことを判断基準の一つにしてきました。新聞の縮刷版や雑誌のバックナンバーを閲覧するほか、ある分野に関してどんな本があるかは、先ず図書館に行って調べたいからです。ただ手に入る本は、可能な限り買って読んできました。書き込みなしでは読んだ気がしないのに加えて、書き手へのお礼の問題が頭から離れないからです。自分が本を書いているからこだわりが強いのかもしれませんが、私にとって、本は買って読む物です。 著者や訳者には、たくさんの人に読んで欲しいという願いがあります。かなうなら、より多くの印税を受け取りたいという期待も持っています。読者の側にも、後ろめたい気持ちなしで本に向き合いたいという思いがあるはずです。コピーをとる代金は、たいていの場合、本の値段程度はかかってしまいます。

中味を書いた人に見返りを与えることは、文化の動力を生み出すエンジンにガソリンを補充することです。書く意欲、訳す意欲、まとめる意欲はやはり、金銭的な裏付けを得てはじめて継続できる物でしょう。

一部のベストセラー作家は別ですが、概して本を書くことや訳すことは割のいい仕事ではありません。「書きたい」あるいは「日本の読者に紹介したい」といった強い気持ちがなければ、続けていくことの難しい作業です。 書店で本を買うときは、ほとんどが思い入れを原動力として仕事を続けている書き手に対して、ちゃんと挨拶したような気分でいられます。支払った代金の一割程度は、確実に著者や訳者に渡るからです。ところが絶版書をコピーする際は、その人たちに印税分がいきません。本人の連絡先を確認し、金額を交渉して支払うことは可能かもしれませんが、かなり面倒な話です。わざわざコピーをとってまで読みたいのだから、その本を大切に思い、書き手の仕事を尊重する気持ちはあるのです。

初版発行部数が五千部なら、見返りは七十五万円になります。著者に関しては一割が慣例の印税率ですが、訳者では六分前後が常識的です。

通常、著者や訳者は、本の定価の一割程度に発行部数をかけた金額を、著作物の出版を認める対価として出版社から受け取ります。 本の定価が千五百円で、印税と呼ばれる報酬の割合が一割だったとすると、一冊あたりの取り分は百五十円。

最初に刷った分が売り切れ、今後もある程度売れ続ける見通しが立つと、増し刷りになります。初回に作っておいた印刷用のフィルムを使い回せるため、再版では一冊あたりの製造コストを抑えられます。とはいえ、まとめて作りたいという事情はここでも付いて回り、増刷も千部程度を最低の単位として行われています。 いったん作ってしまった本は、出版社にとって資産です。見込みがはずれて売れ残れば、保管代がいる上に税金がかかります。

本作りの工程は、ある程度の部数を一度に作ってしまう前提で成り立っています。印刷用の原版を作るところまでが高くつくため、数をまとめないと割高になるからです。初回の印刷分は、平均して五千部程度。三千部前後の本がないわけではありませんが、数が少なくなればなるほど、定価はより高く付けざるを得ません。

長く読み継がれる本がある一方で、新しい本が次々と生まれてきますから、限られた書店のスペースで読者との出合いを待てるものは、ほんの一握りに限られます。

夢見ることが許されるなら、あなたは胸に、どんな新しい本を開くだろう。
歌う本だろうか。 語る本だろうか。 動き出す絵本、読む者を劇中に誘う物語。 それとも、あなた一人のために書かれた本だろうか。 思い描けるなら、夢はきっと未来の本に変わる。 もしもあなたが聞いてくれるなら、私はそんな新しい本の話をしたい。 これから私たちが開くことになる、未来の本の話をしたいと思う。






本の未来のことについて夢いっぱいに書かれていると思ったのですが、
内容は本のこと以外にも、著者の経験談やパソコンについての奥深い話まで様々でした。
過去のお話が多かったので、もっと未来について読んでみたかった自分としては少し残念ではあったのですが、
それでもおもしろかったのは、内容が充実して薄っぺらく感じなかったからでしょうか。

本を書く、ということにもっと興味を注いでくれた本となりました。

遺書 (芥川 竜之介)

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僕等人間は一事件の為に容易に自殺などするものではない。僕は過去の生活の総決算の為に自殺するのである。

四若しこの人生の戦ひに破れし時には汝等の父の如く自殺せよ。但し汝等の父の如く 他に不幸を及ぼすを避けよ。

わが子等に 一人生は死に至る戦ひなることを忘るべからず。 二従つて汝等の力を恃むことを勿れ。汝等の力を養ふを旨とせよ。

僕は勿論死にたくない。しかし生きてゐるのも苦痛である。







青字のところ、けっこう「わかるわかる。」と言われる方が多いのじゃないでしょうか。
人生の道が茨ばかりであっても、死にたくはない。でも生きたくない。矛盾。
生と死のあいだに挟まれた人間が選ぶのは、生きるか死ぬかどちらなのか。

この作品は自殺を否定しておきながら、こう考えればしてもいいんじゃないかみたいなことが
書いてあるように見受けられ、そこがおもしろかった。


ア、秋 (太宰 治)

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秋は、ずるい悪魔だ。夏のうちに全部、身支度をととのえて、せせら笑ってしゃがんでいる。僕くらいの炯眼の詩人になると、それを見破ることができる。家の者が、夏をよろこび海へ行こうか、山へ行こうかなど、はしゃいで言っているのを見ると、ふびんに思う。もう秋が夏と一緒に忍び込んで来ているのに。秋は、根強い曲者である。

秋ハ夏ト同時ニヤッテ来ル。と書いてある。 夏の中に、秋がこっそり隠れて、もはや来ているのであるが、人は、炎熱にだまされて、それを見破ることが出来ぬ。

悲惨と情慾とはうらはらのものらしい。息がとまるほどに、苦しかった。





鼻 (芥川 竜之介)

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内供は慌てて鼻へ手をやった。手にさわるものは、昨夜の短い鼻ではない。上唇の上から顋の下まで、五六寸あまりもぶら下っている、昔の長い鼻である。内供は鼻が一夜の中に、また元の通り長くなったのを知った。そうしてそれと同時に、鼻が短くなった時と同じような、はればれした心もちが、どこからともなく帰って来るのを感じた。

しかし、その日はまだ一日、鼻がまた長くなりはしないかと云う不安があった。そこで内供は誦経する時にも、食事をする時にも、暇さえあれば手を出して、そっと鼻の先にさわって見た。

鼻は――あの顋の下まで下っていた鼻は、ほとんど嘘のように萎縮して、今は僅に上唇の上で意気地なく残喘を保っている。所々まだらに赤くなっているのは、恐らく踏まれた時の痕であろう。こうなれば、もう誰も哂うものはないにちがいない。

最後に、内供は、内典外典の中に、自分と同じような鼻のある人物を見出して、せめても幾分の心やりにしようとさえ思った事がある。けれども、目連や、舎利弗の鼻が長かったとは、どの経文にも書いてない。勿論竜樹や馬鳴も、人並の鼻を備えた菩薩である。内供は、震旦の話の序に蜀漢の劉玄徳の耳が長かったと云う事を聞いた時に、それが鼻だったら、どのくらい自分は心細くなくなるだろうと思った。

その法と云うのは、ただ、湯で鼻を茹でて、その鼻を人に踏ませると云う、極めて簡単なものであった。





大きい鼻に大きなコンプレックスを持つ男のお話。
いくら神様に自分を捧げた存在であったともしても、自分の体のコンプレックスに悩んでいる様は
読んでいてお坊さんの印象が良くなる思いだった。普通の人なんだなぁ、と。(もちろんなのだが)

上の青字のところ、人間らしさが滲み出ていて良いなと思いました。
自分に似た人間を探してしまうところ。人間の本能のひとつなのかもしれませんね。


サンタクロースがさらわれちゃった! (ライマン・フランク・ボーム)

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自分たちのまちがいに、世界をまわってみてはじめて気がついたのです。

大きなソリには、おもちゃの入った大きなふくろがめいっぱいつまれていました。サンタクロースはうんてん席にすわって、ニコニコわらいながら口ぶえをふいていました。サンタクロースにとっては、一年のうちでこの日がいちばん幸せでした。

ニクシミーはおおいそがしのお城にもぐりこんで、サンタクロースの前に行くと、こういいました。「よう、サンタ! じつは、お前にわるい知らせがあるんだよ。」 するとサンタクロースはこういいました。「そうか。いい子なら、そのままお帰り。わるい知らせっていうのは、むねの中にしまって、口に出しちゃいかんのじゃよ。

ニコニコするためには幸せでなくちゃいけませんし、幸せであるためには、楽しいことがむねいっぱいになければなりません。

小川はいつもはしゃいでいて、岸のあいだではねては、くすくす笑っています。風は木のあいだをすりぬけながら、楽しそうに口笛をふいているし、お日さまの光はやわらかい草の上でかろやかにおどっています。スミレなどのいろんな花は、草のおうちの中から空を見上げて、にっこりほほえんでいます。

このニコニコ谷にはお城があります。とても大きくて広いお城で、ここでサンタクロースはみんなのためにクリスマスプレゼントをつくっています。

サンタクロースがどこに住んでいるか、ごぞんじですか? 実は、ニコニコ谷というところに住んでいるのです。そこでサンタクロースはおおぜいの妖精たちといっしょに暮らしています。







サンタクロースがお城に住んでいるのは想像したことがなかったので、おもしろいなと思いました。
(ぼくの想像の世界ではいつも煙突のついた小さな家でした)


この短いストーリーの中に、人間の真理ともいえるフレーズがところどころ散りばめられていたのが
子どもの読者に向けた著者の思いだったのかなぁ、なんて思いました。




あと今まで自分がプレゼントをもらうことが一番重要で、
サンタクロースが幸せかどうかなんて考えたことがなかったです。
間抜けといえば間抜けですが、個人的に盲点だったのでした。


青空文庫ものがたり インターネット図書館の開設から今日まで (野口 英司)

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公表された著作物は、「誰のものでもない、表現した人のもの」であると同時に、「公共の知的財産」という性格を帯びると考える。この公共性の側面を重視して、青空文庫は「著作権が切れたものはただで読めるようにしたい」と目標を据えている。

〈青空の本〉を増やす――この目的のもと、ゆるゆるとした集団で進んでいく。これが、現在の青空文庫のあり方

青空文庫では、公式な“誕生日”を九七年七月七日としている

電子出版という新しい手立てを友として、私たちは〈青空の本〉を作ろうと思います。青空の本を集めた、〈青空文庫〉を育てようと考えています。

見上げれば遠く広がる「青空」と、手を伸ばせばそこにある「文庫」という言葉をつなげた

著作者の権利は尊重する、と同時に、保護期間を終えた著作物は、みんなが自由に、手軽に、広範囲に利用できるようにしていく。これが青空文庫の目的といってもいいだろう。

一人があずかって、その恵みが減じることはない。万人が共に享受して、何ら不都合がない。著作権法が保護の対象とする、創作的な表現にも、万人の共有を許す「青空」としての性格がある。

青空のぬくもりは、誰もが共に味わえる。

伊能忠敬の業績は素晴らしいと思いますが、今になってみれば、何の価値もないと云えるかもしれません。けれど、私は、多分、伊能忠敬は地図作りが楽しかったのではないか、と思うのです。

青空文庫の活動が本当に価値があるのかどうか、それは私にもわかりません。けれど、何より楽しい。

人間の“知ろうとする欲望”“教えようとする欲望”は留まることを知らない。

出版物の版面デジタル画像、および、そのデジタルテキスト。この二つが同時に存在していて、それを誰もが利用できる環境にあることが、インターネット図書館の最終目標と言っていい。 版面デジタル画像のデータベースは、国としてのプロジェクトが組まれた。一方、テキストデータは、ポータルサイトの構築計画だけに留まっていると言わざるを得ない。

それぞれの国が自国の作品だけを管理するのは無意味なことだと分かるだろう。“地球”にただ一つ、作品管理ができるデータベースが存在すればいい。そのデータベースに、著作権保護期間のうちに自国で一定の評価の定まった作品を登録し、公開の日を待つ。そこでは、特定の国や企業や個人の権益を守ることではなく、文化を遺し、伝え、共有することが目的とされる。著作権保護期間についても、こうした長期的な展望を持ったうえで、考えるべきではないだろうか。

大きな壁となったのが、JIS漢字コードにおける限界だった。つまり、底本にある漢字がパソコンにない、あるいは、いわゆる俗字しかない問題だ。ごく大雑把に言うと、パソコンにない漢字をJIS外字と呼ぶ。







インターネット図書館の軌跡。

本の中で、「青空文庫の活動が本当に価値があるのかどうか、それは私にもわかりません。」
とあるのですが、青空文庫はとても価値のあるものであるとぼくは思います。

でも著者はその活動を「けれど、何より楽しい。」と言っていて、
楽しいと思えることをするのに、価値があるかどうかは関係ないのかもしれないなぁ、なんて思いました。


新しいことを始めるときは、わからないことだらけ。
それでも少しずつ進歩が見えるこの本を読むと、自分も何か自分が「楽しい!」と思えることを
ちゃんと続けて、なおかつ進歩していくことができたらと思いました。


村の学校(実話) (ドーデ アルフォンス)

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今からちようど六十年前に、フランスはドイツとの戦争にまけて、二十億円のばい償金を負はされ、アルザス・ローレイヌ州を奪はれました。その土地はこの前の世界戦争で、やつと又とりかへしました。このお話は、アルザス・ローレイヌがドイツ領になつて、村々の小学校も先生がみんなドイツ人にかはつてしまつたときのお話です

「あゝ、さうだよ。ぼくはにげて来たんだよ。二度と学校にいきたくないんだよ。ぼくはドイツ語なんか――どろぼうの、人殺しの言葉なんか、話さないよ

とき〴〵、ガスパールが杖でたゝかれたあと、その二つの目が、怒りで一ぱいになるのを見ますと、私は、じぶんがクロック先生だつたら、その目つきがおそろしいだらうと思ひました。でも先生はちつともおそれませんでした。杖でなぐりつけたつぎには断食をさせました。しまひには牢屋を発明しました。ガスパールはその中におしこめられたきり、ほとんど外へは出されませんでした。

この情のない先生の目からは、私たちは、家も家の人もなく、たゞドイツ語ををそはるために、そしてふとい杖でぶたれるために、わきの下に本をかゝへて、小学校の生徒としてこの世に生れて来ただけのものでした。 ほんとに私も、はじめの間は、ずゐぶんぶたれました。






フランスがドイツに負けて、ドイツ語を急に学ばないといけなくなった子どもたちの実話。

戦争のときは、それぞれの国の文化を尊重して生きるというより、本当に何も考えず自分の国の価値観を他国にまで
広げようとしていることが理解できました。

僕自身ももし子どものころにこんな経験、急に母国語の日本語ではなく、たとえば敵国の言葉を学ぶことになれば、
反発してしまいそうな気がします。それだけ母国愛精神があるということですね。


戦争の馬鹿らしさがより一層頭の中で濃くなるストーリーでした。


淫売婦 (葉山 嘉樹)

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私は淫売婦の代りに殉教者を見た。 彼女は、被搾取階級の一切の運命を象徴しているように見えた。

お前はどう思う。俺たちが何故死んじまわないんだろうと不思議に思うだろうな、穴倉の中で蛆虫見たいに生きているのは詰らないと思うだろう。全く詰らない骨頂さ、だがね、生きてると何か役に立てないこともあるまい。いつか何かの折があるだろう、と云う空頼みが俺たちを引っ張っているんだよ

兎に角(とにかく)

私の心臓は私よりも慌てていた。






心臓と私が切り離されている表現がおもしろかった。

あと、「とにかく」って漢字にすると「兎に角」なのですね。勉強になりました。


オリンポスの果実 (田中 英光)

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ラストがすごく印象に残る。(ネタバレの可能性あり)







愛情の周囲を歩いた想い出だけです

ジャアナリズムの魔術に呆れたものです。ぼくの寸言も真実、喋ったものではありませんでした。

あなたの瞳の柔軟な美しさ

なに一つできぬ自分がほんとに厭になった。自分の意気地なさ、だらしなさ、情けなさが身にしみ、自分の影法師まで、いやになって、なんにも取縋るものがないのです。星影あわき太平洋、意地のわるい黒い海だった。

見物人は船客一同に加えて、満天の星と、或いは、海の鱗族共ものぞいているかも知れません。

それ迄みも知らぬ赤の他人の邦人の方が、日本選手という名前だけで、自動車と昼食とアイスクリイムを提供してくれ、その上、細々と御世話を焼いて下さった御好意は、真実、日本人同士ならばこそという気持を味って嬉しかった。あれ程、損得から離れた親切さには、その後めったに逢いません。

男は女が自分に愛されようと身も心も投げだしてくると、隙だらけになった女のあらが丸見えになり堪らなく女が鼻につくそうです。女が反対に自分から逃げようとすればするほど、女が慕わしくなるとかきいています。

主将の八郎さんが、かつてみない激しさで「泣くな。勝ってから、泣け」と噛みつくように叱った。 その激しい言葉に、自己感傷に溺れかけていたぼくは、身体が慄えるほど、鞭うたれたのです。

ゴオルに入った途端、ぼく達の耳朶に響いたピストルは、過去二年間にわたる血と涙と汗の苦労が、この五分間で終った合図でもありました。

涯しないみどりの芝生

我慢できないような厭らしい沈黙

ぼく達は、努力しすぎて負けることを、少しも恥とせぬ潔い気持でした

それから、ぼくの眼は、あなたを追わなくなりました。しかし、心は。

月の色が、どこで、どんなときにみても、変らないというのは、人間にとって、甚だもの悲しいことです。

七月の太陽

一望千里、涯しない大洋の碧さに、甘い少年の感傷を注いで

日本を離れるに随って、日本が好きになるとは、誰しもが言う処

「大坂よ、お前は惚れている女から、いつも馬鹿と呼ばれているんだぞ」と罵り、そこで皆から、ひとしきり嘲笑の雨。 ぼくは、しばしポカンとしていましたが、堪え切れなくなると、「そうですか」と一言。泣きッ面をみられないようにまた暗い甲板に。

かにかくに杏の味のほろ苦く、舌にのこれる初恋のこと

ぼくはあのひとが好きでたまらない。この頃のぼくはひとりでいるときでも、なんでも、あのひとと一緒にいる気がしてならない。ぼくの呼吸も、ぼくの皮膚も、息づくのが、すでに、あのひとなしに考えられない。たえず、ぼくの血管のなかには、あのひとの血が流れているほど、いつも、あのひとはぼくの身近にいる。

当時、ぼくは二十歳、たいへん理想に燃えていたものです。なによりも、貧しき人々を救いたいという非望を、愛していました。だから、その頃、なにか苦しい目にぶつかると、あの哀れな人達を思えと、自分に言いきかせて、頑張ったものです。

雲影模糊とみえそめた島々の蒼さを驚異と憧憬の眼でみつめたまま

おもうに、あのとき、燃える空と海に包まれ、そして、焼きつくような日光をあびた甲板に、勝っているときは嬉しく、負けたときは口惜しく、遊びの楽しさの他には、なにもなかった。ぼくは、本当に、黄金の日々を過していたのでした。

観念に憑かれぬという意味での美しさが、百花撩乱と咲き乱れておりました。

紫紺のセエタアの胸高いあたりに、紅く、Nippon と縫いとりし、踝まで同じ色のパンツをはいて、足音をきこえぬくらいの速さで、ゴオルに躍りこむ。と、すこし離れている、ぼくにさえ聞えるほどの激しい動悸、粒々の汗が、小麦色に陽焼けした、豊かな頬を滴り、黒いリボンで結んだ、髪の乱れが、頸すじに、汗に濡れ、纏りついているのを、無造作にかきあげる。

ぼくは直ぐ、恥かしくなって、視線をそらせようとすると、あなたも、寂しいくらい白い歯をみせ、笑うと、窓硝子をトントン拳で叩く真似をしてから、身をひるがえし逃げてゆきました。

(よく、食うなア)と、あなたに言った積りですが、案外、自分のことでしょう。

何も彼にもが、しろがね色に光り輝く、この雰囲気のなかでは、喋るよりも黙って、あなたと、海をみているほうが、愉しかった。

こんな景色とて、これが、あの背広を失った晩に見たらどんなにつまらなく見えたでしょうか。いわばあなたとの最初の邂逅が、こんなにも、海を、月を、夜を、香わしくさせたとしか思われません。ぼくは胸を膨らませ、あなたを見つめました。

それから何日、経ったでしょう、ぼくはその間、どうしたらあなたと友達になれるかと、そればかりを考えていました。

船の頂辺のボオト・デッキから、船底のCデッキまで、ぼくは閑さえあると、くるくる廻り歩き、あなたの姿を追って、一目遠くからでも見れば、満足だったのです

子供のように跳ねてゆくところを、ぼくは、拍子抜けしたように、ぽかんと眺めていたのです。その癖、心のなかには、潮のように、温かいなにかが、ふツふツと沸き、荒れ狂ってくるのでした。

みじんも化粧もせず、白粉のかわりに、健康がぷんぷん匂う清潔さ

漕いでいれば、あんなに辛いものでも、見ていれば綺麗に違いありません。

なかでも、波止場の人混みのなかで、押し潰されそうになりながら、手巾をふっている老母の姿をみたときは目頭が熱くなりました。

京浜間に多い工場という工場の、窓から、柵から、或いは屋根にまで登って、日の丸の旗を振ってくれていた職工さんや女工さんの、目白押しの純真な姿を、汽車の窓からみたときには、思わず涙がでそうになりました。

悶え悶え、ぼくは手摺によりかかりました。其処は三階、下はコンクリイトの土間です。飛び降りれば、それでお終い。思い切って、ぼくは、頭をまえに突き出しました。ちょうど手摺が腰の辺に、あたります。離れかかった足指には、力が一杯、入っています。「神様!」ぼくは泣いていたかもしれません。しかし、その瞬間、ぼくが唾をすると、それは落ちてから水溜りでもあったのでしょう。ボチャンという、微かな音がしました。すると、ぼくには、不意と、なにか死ぬのが莫迦々々しくなり、殊に、死ぬまでの痛さが身に沁みておもわれ、いそいで、足をバタつかせ、圧迫されていた腸の辺りを、まえに戻しました。いま考えると、可笑しいのですが、そのときは満天の星、銀と輝く、美しい夜空のもとで、ほんとに困って死にたかった。

東海さんは昨年、戦地で逢いました。補欠の佐藤は戦死したと聞きました。 戦地で、覚悟を決めた月光も明るい晩のこと、ふっと、あなたへ手紙を書きましたが、やはり返事は来ませんでした。 あなたは、いったい、ぼくが好きだったのでしょうか。

到頭あなたの手紙は来なかった。








オリンピックの出場選手である主人公の、片思いの女性へのラブレター。


なんだか読んでいて、フィクションなのにすごく生々しい感じがして、
文体にすぐに引き込まれていった。

一人の人にこんなに想いを注ぐことができた主人公をとてもうらやましく思った。


内容の大半がその女性への想いを告げる内容とオリンピック前後の出来事を綴っているのだけれど、
ラストになって、実はこのラブレターは戦地で書かれているものという事実がわかって、
その話のコントラストにすごく驚かされたというか、とても切なかった。


戦時中、どれだけの人がどれほどのラブレターを書いたんだろう。
そしてそのラブレターはちゃんと届いたのだろうか。
そんなことを想像してしまう本だった。


名作中の名作。

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