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いのちの初夜 (北条 民雄)

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ハンセン病、生きること、死ぬこと。






苦しむためには才能が要るって。苦しみ得ないものもある

焦らないではいられませんよ。良くならないのが解りきっているのですから。毎日毎日波のように上下しながら、それでも潮が満ちて来るように悪くなって行くんです。ほんとに不可抗力なんですよ」

人間ではありませんよ。生命です。生命そのもの、いのちそのものなんです。僕の言うこと、解ってくれますか、尾田さん。あの人たちの『人間』はもう死んで亡びてしまったんです。ただ、生命だけがびくびくと生きているのです。なんという根強さでしょう。誰でも癩になった刹那に、その人の人間は亡びるのです。死ぬのです。社会的人間として亡びるだけではありません。そんな浅はかな亡び方では決してないのです。廃兵ではなく、廃人なんです。けれど、尾田さん、僕らは不死鳥です。新しい思想、新しい眼を持つ時、全然癩者の生活を獲得する時、再び人間として生き復るのです。復活そう復活です。びくびくと生きている生命が肉体を獲得するのです。新しい人間生活はそれから始まるのです。尾田さん、あなたは今死んでいるのです。死んでいますとも、あなたは人間じゃあないんです。あなたの苦悩や絶望、それがどこから来るか、考えてみてください。一たび死んだ過去の人間を捜し求めているからではないでしょうか」

「ね尾田さん。あの人たちは、もう人間じゃあないんですよ」

あなたが見られた癩者の生活は、まだまだほんの表面なんですよ。この病院の内部には、一般社会の人の到底想像すらも及ばない異常な人間の姿が、生活が描かれ築かれているのですよ

ね尾田さん。どんなに痛んでも死なない、どんなに外面が崩れても死なない。癩の特徴ですね

これでも人間と信じて良いのか、陰部まで電光の下にさらして、そこにまで無数の結節が、黒い虫のように点々とできているのだった。もちろん一本の陰毛すらも散り果てているのだ。

なんというもの凄い世界だろう。この中で佐柄木は生きると言うのだ。だが、自分はどう生きる態度を定めたら良いのだろう

同情ほど愛情から遠いものはありません

意志のないものに絶望などあろうはずがないじゃありませんか。生きる意志こそ絶望の源泉だと常に思っているのです。

僕思うんですが、意志の大いさは絶望の大いさに正比する

つまりこの人たちも、そして僕自身をも含めて、生きているのです。このことを、あなたは不思議に思いませんか。奇怪な気がしませんか

どれもこれも癩れかかった人々ばかりで人間というよりは呼吸のある泥人形であった。

崩れかかった重病者の股間に首を突っ込んで絆創膏を貼っているような時でも、決していやな貌を見せない彼は、いやな貌になるのを忘れているらしいのであった。

泥のように色艶が全くなく、ちょっとつつけば膿汁が飛び出すかと思われるほどぶくぶくと脹らんで、その上に眉毛が一本も生えていないため怪しくも間の抜けたのっぺら棒であった。駈け出したためか昂奮した息をふうふう吐きながら、黄色く爛れた眼でじろじろと尾田を見るのであった。尾田はますます眉を窄めたが、初めてまざまざと見る同病者だった

「今」どうして俺は死なねばならんのだろう、「今」がどうして俺の死ぬ時なんだろう、すると「今」死ななくても良いような気がして来るのだった。

いったい俺は死にたいのだろうか、生きたいのだろうか、俺に死ぬ気が本当にあるのだろうか、ないのだろうか、

やはり生きてみることだ











著者自体がハンセン病にかかって療養所に入ったことは読み終わった後に知りました。
「なんというもの凄い世界だろう」という一文は、まさに著者が味わった世界への一言なのでしょう。

この本を読み終えて、ネットで改めてハンセン病について調べてみたのですが、
やっぱり患者さんたちの画像を見るのが辛くて泣きそうになりました。

もし自分がこの病気にかかっていたら、もし治療法が確立されていなかったら。
そう考えると、患者さんたちの苦しみが痛いほどわかるのです。
でもぼくの想像をはるかに超えて患者さんたちは苦しまれていたのでしょう。



なんていう本。
忘れようにももう忘れられないほどの小説でした。
ハンセン病を知らない現代の人間が読むべき必読書。
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牛若と弁慶 (楠山 正雄)

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「ああ、明るい。」 はじめておかあさんのおなかからとび出したとき、こういっていきなりちょこちょこと歩き出したそうです。おとうさんは気味をわるがって、大きくなるとすぐ、お寺へやってしまいました。お寺へやられても、生まれつきたいそう気のあらい上に、この上なく力が強いので、すこし気にくわないことがあると、ほかの坊さんをぶちました。ぶたれて死んだ坊さんもありました。

天狗:「おれはこの僧正ガ谷に住むてんぐだ。お前の剣術はまずくって見ていられない。今夜からおれが教えてやろう。」 といいました。
牛若:「それはありがとう。じゃあ、おしえて下さい。」

弁慶は義経といっしょに度々戦に出て手柄をあらわしました。後に義経が頼朝と仲が悪くなって、奥州へ下った時も、しじゅう義経のお供をして忠義をつくしました。そしておしまいに奥州の衣川というところで、義経のために討ち死にをしました。その時体じゅうに矢を受けながら、じっと立って敵をにらみつけたまま死んでいたので、弁慶の立ち往生だといって、みんなおどろきました。












おそらく日本中の誰もが知っている牛若と弁慶のお話。
ぼくは曖昧にしか覚えていなかったので、今回読んでみたのですが、
牛若に会うまでの弁慶がこんな糞男だとは思っていなかったのでびっくりしました。
弁慶にぶたれて死んだお坊さんもいると書いてあって、なんて世界なんだ、と思ったりしました。
また、天狗が牛若に剣術を教えてやろうとするシーンも、はじめて会う天狗に牛若が「じゃあ、おしえてください。」と
ものすごく素直だったので、なんだかおかしくて笑ってしまいました。

でもラストで弁慶が牛若を守るために死んだところに感動がありますね。
自分より強いもの、尊敬するものを死んでも守ろうとする精神にすばらしさを感じました。

味覚馬鹿 (北大路 魯山人)

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美味いもの食いの道楽は健康への投資と心得よ。


食事の時間がきたら食事をするという人がある。食事の時間だから食べるのではなく、腹が空ったから食べるのでなければ、美味しくはない。美味しいと思わぬものは、栄養にはならぬ。美味しいものは必ず栄養になる。

料理というと、とかく食べ物だけに捉われるが、食べ物以外のこれらの美術も人間にとって欠くことの出来ない栄養物なんだから、大いに気を配ることが肝心だ。

絵でも、書でも、せいぜい趣味の高いものに越したことはない。これまた心の栄養で、人間をつくる上の大切な肥料なんだから。

料理を美味く食わすという点からいえば、同じものでもよい器に容れる。景色のよいところで食うことが望ましい。叶わぬまでも、なるべくそういうふうにする心がけが必要である。アパートでも、部屋をよい趣味で整えて食事をする。そういう心掛けが、料理を美味くする秘訣だ。ただ食うだけというのではなく、美的な雰囲気にも気を配る。これが結局はまた料理を美味くする。

鶏でも年老ったのは不味い。卵を生む前のが美味い。

材料を見分ける力をまずつけること

「人はその食するところのもの」と、ブリア・サヴァラン(『味覚の生理学』の著者)はいっている。その人の生活と、大きく考えれば人生に対する態度が窺われる。

高いものは食えない、料理の工夫は知らない、旧慣をあり難いものにして、自分たちはこれでよいのだとあきらめているからである

万人が日常食とするお惣菜料理の大部分は、あきらめの料理

栄養栄養と、この流行に災いされ、栄養薬を食って栄養食の生活なりと、
履き違えをしているらしい。


料理は悟ることだよ、拵えることではないんだ

そういえば、台所道具がどこの家もなっていない。よく切れるいい庖丁、大根おろし、わけてもかつおぶしを削る鉋のごとき、どれも清潔で、おのおの充分の用に耐えるべき品が用意されていないように思う。

ほんとうに美味いものを食べたいと思う食通は、まず飯を吟味しなくてはならぬ。飯のよしあし、また飯と平行して、煮だしこぶのよしあし、これを果してどのくらい知っている人があるだろうか?

飽きるところから新しい料理は生まれる。

低級な食器にあまんじている者は、それだけの料理しかなし得ない。こんな料理で育てられた人間は、それだけの人間にしかなり得ない。

美味なれば必ず栄養が存する。

現今の料理は美趣味が欠如している。











食器に対する思いがすごく僕にとってはおもしろかったです。
安物の食器でもちょっとオシャレな感じであればいいだろう、なんて思っていたからです。
いわば食器を軽視していたのです。なんと哀れな自分。


「絵でも、書でも、せいぜい趣味の高いものに越したことはない。
 これまた心の栄養で、人間をつくる上の大切な肥料なんだから。」

というフレーズが胸に焼きつきました。一流の肥料を蒔いて一流の人間をつくってみたいものです。

美味い豆腐の話 (北大路 魯山人)

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美味しい豆腐はどこにある。






京都人は精進料理など、金のかからぬ美食を求めることにおいて第一流である。
そういうせいで、京都の豆腐は美味い。

美味い豆腐はどこで求めたらいいか? ズバリ、京都である。
京都は古来水明で名高いところだけに、良水が豊富なため、いい豆腐ができる







ぼくは豆腐が大の苦手なのですが、京都の豆腐、一度挑戦してみたいと思いました。
精進料理を「お金のかからない美食」と表現されていることに、美しさを感じました。

日本料理の基礎観念 (北大路 魯山人)

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終わりに、醤油について、ひと言申し上げておきたいと存じます。濃口醤油ではどうもよい料理ができないのです。薄口というのがあります。これは播州竜野でできるのですが、関西では昔から使われています。東京にはこれまでありませんでした。近頃、山城屋には置いています。実際、薄口でなければ、ほんとうによい料理はできません。色はつきませんし、しかも、値段は安く、塩分が多いからよくのびて、経済からいっても大いに安いし、まったく料理には薄口がなければならないといってもよいでしょう。

私は生きた食器、死んだ食器ということをいっておりますが、料理を盛って、生きた感じがしますのと、なにもかも殺してしまう食器とがあります。

魚も鳥も大は、ある時を経てよし、小は、新鮮にかぎると知ること 魚とか鳥とかの大きいものは、相当時間が経過して味のよくなるものがあります。けれども小さいもの、鳥でいえば、鶫とか鶉とか雀とか、魚でなら、いわしとかあじとかいいますものは、獲りたて、または締めたてでなくては美味くありません。

たいなど大きいものになりますと、一日二日おいた方が、かえって味がよいこともありますが、野菜は採りましてからも、ある期間、不自然な発育をしていますから、その処理に工夫を要します。例えば、ねぎにしますなら、青いところを摘んでしまって、白根だけにしておきます。それでないと、青い部分を育てて白根の養分をなくしますから、そうしないようにする。また、だいこんでありましたら、葉をつけたままだと、葉を育てるためにだいこんの方から養分がとられますから、葉を切り放して、葉はすぐ糠味噌に入れるなどした方がよろしいのです。

ほんとうに生きているものを食べる――という心がけが美食には必要となります。生きた野菜でなければ、真の美味は摂取できないわけです。


こぶの出汁を取りますのは、こぶを水でぬらしただけで、五分間か三分間、間をおき、こぶの表面がほとびれた感じのする時、水道の水で、ジャーッとさせないで、音もせず身動きもしないで、トロッと出る水をこぶに受けながら、指先で器用にいたわって、だましだまし、こぶの表面の砂、ゴミみたいなものを落とすのです。そのこぶを熱湯の中へサッと通す。それでいいのであります。これでは、出汁が出たかどうかと訝かられるかも知れませんが、これで充分、出汁ができているので、出たか出ないかは、ちょっと汁をなめてみるのです。これで、実に気の利いた出汁ができています。


削ったかつおぶしがまるで雁皮紙のごとく薄く、ガラスのように光沢あるものでないといけないのであります。こういうのでないと、よい出汁が出ないのであります。削り下手なかつおぶしは、死んだ出汁が出ます。

かつおぶしはどういうふうにして削るか、どういうふうにして材料を選択するか。かつおぶしとかつおぶしとを叩き合わすと、カンカンとまるで拍子木を鳴らすみたいな音でないといけません。虫の入った木のような、ポトポトしかいわない、湿っぽい匂いのするのはだめです。

原料は鳥にしても、あまり成熟しない中くらいのものがよろしいのでありまして、真に賞味出来るのは、そういうものであります。たいについて申しましても、四、五百匁のところがちょうど美味本位に当たるので、一貫目から一貫目以上になると、非常に味が大味になります。しかし、味はたとえ落ちても、大きいたいの頭を兜蒸しなどに使うのは立派でいいでしょうが、実際からいいますと、やはり、美味くありません。大きいのは形と色彩がよくて感じは立派だが、味は論になりません。それならば小振りのものが味がよいといって、小さいものばかりに決めるかといえば、たびたびのことになると、そうばかりにいかない。

料理とは食というものの理を料るという文字を書きますが、そこに深い意味があるように思います。ですから、合理的でなくてはなりません。ものの道理に合わないことではいけません。ものを合理的に処理することであります。割烹というのは、切るとか煮るとかいうのみのことで、食物の理を料るとはいいにくい。料理というのは、どこまでも理を料ることで、不自然な無理をしてはいけないのであります。




著者についてまったくどんな方なのかも知らず、彼の本を最近いくつか読んでいるのですが、
すごいですね。料理の神様なのかさえ思ってしまうほど、真理をついているというか。

「生きた食器、死んだ食器」っていう表現でなるほどと思わされ、
「ほんとうに生きているものを食べる」っていう言葉でガツンと来て、
「料理は合理的でないといけない」という言葉で頭が下がる思いがしました。


”料理”を追究して追及して追及された方なのだと思いました。
尊敬。

材料か料理か (北大路 魯山人)

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材料がいかに大切かを説いている。


「料理の美味不味は、十中九まで材料の質の選択にあり」と解してよい

各地各国には、それぞれの土地においしいものがあるに違いない。各人はせめて自分のいる場所の近くで、魚ではなにがいちばんおいしいか、また、同じ魚を手にしてもその魚のいちばんおいしいところはどの部分か、ということを知らねばならぬ。

甘い料理が好きなひともあり、からい料理の好きなひともあるが、甘いからいのおいしさではなく、ごちそうの味の「九」までを受け持っている材料

中国では料理の功は材料が六、料理の腕前が四といわれたが、日本は中国と違って、料理材料が段違いにすぐれているから、材料の功が九、料理の腕前はその一しか受け持っていなかった。要は材料の質が中国に勝っているからである。

人間は習慣になったために、その習慣から抜け切れない場合と、毎日重なったために、かえってそれが鼻につく場合とがある。





ぼくの場合で考えると、、材料を選ぶ際に野菜しか見分け方しか分からないので、今の自分が情けないと思いました。
100%中90%も材料次第だとは思っていなかったので、これからはもっと材料を見かける力をつけるよう努力しようと思いました。その点、料理人の方々は野菜だけに限らずすべてにおいて把握されているわけですから、
やっぱりすごいなぁと改めて思ったりしたのでした。

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