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お米の話 (北大路 魯山人)

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ご飯に対する意識が変わる本。





飯は料理ではないという考えを改め、立派な料理だと考えなければならない。

料理人は飯なんてものは、無意識のうちに料理ではないと考えているらしい。

飯は最後のとどめを刺すものであり、下戸には大事な料理である。料理をするほどの者が、自信をもって飯が炊けないということは、無茶苦茶な振舞いであり、親切者とはいえないことになる。

たいていの料理人は自分の受け持ちの料理さえ出してしまうと、後の飯がどうであろうと、一切お構いなしで帰ってしまう。それでは料理人としての資格はゼロに等しいといわれても、彼らは一向に頓着しない。理想がないからだ。

ところが、料理屋というものの多くは、酒飲み本位に工夫されている

本当の料理人ならば、仮に自分で飯を炊かなくとも、飯がうまく炊けたかどうかということについて、相当気になるはずであるなぜなら、せっかくいい料理を作っても締めくくりに出る飯がだめだったら、すべてがぶちこわしになってしまうからである

玄米は白米とは別な意味で非常にうまい。玄米のごはんにご馳走をつけて出すのは蛇足である。漬けものでもあれば充分である。だから、いくらうまいといっても、料理の後では邪魔になる。

うまいからこそ毎日食べていられるわけなのである。特にうまい米は、もうそれだけで充分で、ほかになにもいらなくなってしまう。

その昔、朝鮮で李王さまにあげるために作っていた米がある。これはすこぶるうまかった。収穫は非常に少ないが、米粒の形もよく、見たところもきれいな米であった。ただし、あまりうますぎて、副食物がご馳走の目的の場合には使えない。うますぎるというと変に聞こえるかも知れないが、元来米というものはうまいものである。うまいものの極致は米なのである










読んでよかった!と思えた本です。
日本国民全員が読むべきだなぁと思いました。
お米が美味しいなんて当たり前だったから、余計そう感じてしまいます。

一度ニュージーランドにいたときは、タイ米ばかり食べていたので、
あの頃は日本米の美味しさを尊んだものでした。あの頃の気持ちをちゃんと心に留めておきたいものだと
改めて思いました。



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美食七十年の体験 (北大路 魯山人)

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衣食足りて礼節を識る

栄養というものは人間が自己の欲求して止まぬところの美味。
これを素直にとり入れ、舌鼓打ちながら、うまいうまいと絶叫し続けるところに、
おのずと健康はつくられ、栄養効果は上がるのである。

多くの実例が示すように、栄養食がまことにまずいものと評されているようでは、
理屈通りの栄養効果は望めるものではなかろう。

食ってうまくないものを怪しみもせず、無神経に食べて、腹ふくらし病気ばかりしているひとびとの姿は、
まことに笑止千万といいたい。

食物を楽しみきる術を知らないし、また意欲も足りない。












「食物を楽しみきる術」っていう言葉が印象に残りました。

あと、「舌鼓打ちながら、うまいうまいと絶叫し続けるところに、
おのずと健康はつくられ、栄養効果は上がるのである。」
っていう言葉!
すごく素敵な表現ですよね。真理!








料理メモ (北大路 魯山人)

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箇条書きのメモ。





*ふぐの刺身に優る刺身はない。

*下関のふぐには危険なし。*ふぐには酒、煙草のような一種の止められない普通の味以外の味がある。

*ふぐの刺身に優る刺身はない。

*ふぐの身皮(三河)の間の遠江というところは皮より美味い。

*ふぐの美味さはすっぽんなどの比でなく、いかなる美食も比べられない。

美食はふぐにとどめを刺す。その証拠にはふぐが出ると他のものは食えぬ。

*東京の野菜は食うより見る野菜が多い。

*しかし根岸しょうがのような名品もある。だがだんだん家が建てこみ、これも場違いになりかけている。

*えびいもは京都駅裏の九条、かぼちゃは鹿ヶ谷、壬生菜は壬生が名産で他では出来なかったが、
  今は住宅となってだんだん場違いになりかけている。


*蔬菜(そさい)は極力新鮮を採れ、畑からじかが一等。
 たけのこ、まつたけなどは採取後も育って変質さえする。

*名高き野菜も古くては無名の新鮮に劣る。

促成栽培を馬鹿にするな。促成には促成の美味がある。

*東京で皮の付かないにわとりを食って喜んでいるひとは、にわとりの味を知らぬひとといっていい。

*にわとりは皮ごとやわらかく食えるものにかぎる。

*養殖のうなぎはまずくてくさい。

うなぎ好きは食通の至ったものではない。うなぎやてんぷらの美味さは高の知れた美味さだ。
 これをやかましく喜ぶのは低級な食道楽だ。

てんぷらに新鮮なだいこんおろし、これにしょうゆをかけて食べれば俗なだしに優る。

*揚げたて第二。てんぷらは揚げてすぐ食べなくては種がよくても味は落ちる。

*油第三。種がよくても油がまずくては不可。

*油は胡麻の古い貯蔵品が味がこなれていていい。

*かや油、椿油は単独はいけないが、これを三割くらい加えると胡麻油の味は軽くなっておちつく。








なんだかものすっごく、天ぷらに大根おろしかけて食べたくなりました。

雑煮 (北大路 魯山人)

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雑煮への想い。






なにか変わった趣を添えたいような場合には、いもに角目を立てて削るのも悪くない。

わたしの経験からいうと、雑煮の中を賑々しくするためには、にんじんとか、だいこん、いもなどを入れる方がよいだろう。

要するに、雑煮はあり合わせで、見つくろって出せばよいのだ

いちばん肝要なのは、餅の焼き方である。昔から狐色に焼くのを最上としておったようだが、ところどころ濃く、ところどころ狐色に丁度鼈甲の斑を思わせるように焼くのが理想的である。そして、餅の堅い、やわらかいの程度によって、火の加減をしないと、中身が堅いのに表面ばかり焦げたり、白くしなしなしてしまったりする。 雑煮のコツは、餅の焼き方にあるといってよいと思う。料理屋で出す小型マッチ箱ぐらいの大きさが、見た目の感じがよい








雑煮はあり合わせで、見つくろって出せばよい、っていう言葉に、はっとします。
そういえば雑な煮物で「雑煮」なんですね。

今、すごく食べたくなりました。

鍋料理の話 (北大路 魯山人)

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鍋の心構え。



工夫とは自然にもっとも接近することだ。なべ料理の材料の盛り方ひとつでも、心掛け次第



たれをつくるには、すでにご承知であろうが、砂糖と醤油と酒とを適当に混和する。酒はふんだんに使うのがよろしい。かんざましでよい。アルコール分は含まれていなくていいのだし、飲んで酔おうというのとは異なるから、かんざましでよいわけである。ごく上等の酒を、思い切って多く用いるのがよい。

だしのことだが、人によって好みはさまざまである。あっさりしたのが好きだという人もある。あっさりしたのは、たいがい酒を飲む人に向く。飯を食うのには、いくらか味の強いのがよいかも知れない

なべ料理の材料を盛るのは、深鉢にこんもりと盛るのがよろしい。材料はさっき述べた通り、なんでもよい。ただ感心しないのは貝類である。貝類は、ほんのわずかならかまわないが、多く使うと、どうも味を悪くするキライがある。

「なべ料理」のことを、東京では「寄せなべ」というが、上方では「楽しみなべ」ともいっている。なぜ「楽しみなべ」というかといえば、たいの頭があったり、蒲鉾があったり、鴨があったり、いろいろな材料がちらちら目について、大皿に盛られたありさまが、はなやかで、あれを食べよう、これを食べようと思いめぐらして楽しみだからである。
「楽しみなべ」という名称は、実によくあてはまっている。しかし、「寄せなべ」というのは、なんだか簡単すぎて感じのよい名前ではないと思う







「楽しみ鍋」という言葉をはじめて目にしたのですが、すごく素敵ですね。
直接的に愉快。「寄せ鍋」という言葉がつまらないと言われると、確かにそうだなぁなんて思ったりしました。

ぼくはこれからは「楽しみ鍋」と言うことにします。
だって実際、楽しいもの。




茶の本 (岡倉 天心)

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恐ろしい本だと思った。









その式は終わった、客は涙をおさえかね、最後の訣別をして室を出て行く。彼に最も親密な者がただ一人、あとに残って最期を見届けてくれるようにと頼まれる。そこで利休は茶会の服を脱いで、だいじにたたんで畳の上におく、それでその時まで隠れていた清浄無垢な白い死に装束があらわれる。彼は短剣の輝く刀身を恍惚とながめて、次の絶唱を詠む。人生七十 力囲希咄 吾が這の宝剣 祖仏共に殺す(三七)笑みを顔にうかべながら、利休は冥土へ行ったのであった。

「不幸の人のくちびるによって不浄になった器は決して再び人間には使用させない。」


利休が自己犠牲をすることに定められた日に、彼はおもなる門人を最後の茶の湯に招いた。

人はおのれを美しくして始めて美に近づく権利が生まれるのであるから。

花をちぎる事によって、新たな形を生み出して世人の考えを高尚にする事ができるならば、そうしてもよいではないか。われわれが花に求むるところはただ美に対する奉納を共にせん事にあるのみ。われわれは「純潔」と「清楚」に身をささげる事によってその罪滅ぼしをしよう。こういうふうな論法で、茶人たちは生花の法を定めたのである。

われわれはいずれに向かっても「破壊」に面するのである。上に向かうも破壊、下に向かうも破壊、前にも破壊、後ろにも破壊。変化こそは唯一の永遠である。何ゆえに死を生のごとく喜び迎えないのであるか

蘭類が温室で、人工の熱によって息づまる思いをしながら、なつかしい南国の空を一目見たいとあてもなくあこがれているとだれが知っていよう。

何ゆえに花をそのふるさとから連れ出して、知らぬ他郷に咲かせようとするのであるか。それは小鳥を籠に閉じこめて、歌わせようとするのも同じではないか

諸君は、野生の花が年々少なくなってゆくのに気はつきませんか。それは彼らの中の賢人どもが、人がもっと人情のあるようになるまでこの世から去れと彼らに言ってきかせたのかもしれない。たぶん彼らは天へ移住してしまったのであろう。

悲しいかな! 翼ある唯一の花と知られているのは蝶であって、他の花は皆、破壊者に会ってはどうすることもできない。彼らが断末魔の苦しみに叫んだとても、その声はわれらの無情の耳へは決して達しない

西洋においては、花を飾るのは富を表わす一時的美観の一部、すなわちその場の思いつきであるように思われる。これらの花は皆その騒ぎの済んだあとはどこへ行くのであろう。しおれた花が無情にも糞土の上に捨てられているのを見るほど、世にも哀れなものはない。 どうして花はかくも美しく生まれて、しかもかくまで薄命なのであろう。

舞踏室や宴会の席を飾るために日々切り取られ、翌日は投げ捨てられる花の数はなかなか莫大なものに違いない。

世間で、人間は十で禽獣、二十で発狂、三十で失敗、四十で山師、五十で罪人といっている。

花なくてどうして生きて行かれよう。

花がなくては死んでも行けぬ。

喜びにも悲しみにも、花はわれらの不断の友である。

われわれはあまりに分類し過ぎて、あまりに楽しむことが少ない。いわゆる科学的方法の陳列のために、審美的方法を犠牲にしたことは、これまで多くの博物館の害毒であった。

彼らにとっては、作品の良否よりも美術家の名が重要である。

品を欲するのである。

実に遺憾にたえないことには、現今美術に対する表面的の熱狂は、真の感じに根拠をおいていない。われわれのこの民本主義の時代においては、人は自己の感情には無頓着に世間一般から最も良いと考えられている物を得ようとかしましく騒ぐ。高雅なものではなくて、高価なものを欲し、美しいものではなくて、流行

われらの個性さえも、ある意味においてわれわれの理解力に制限を設けるものである

「見えはる男には惚れられぬ。」というのがある。そのわけは、そういう男の心には、愛を注いで満たすべきすきまがないからである。芸術においてもこれと等しく、虚栄は芸術家公衆いずれにおいても同情心を害することはなはだしいものである。

現代人は、技術に没頭して、おのれの域を脱することはまれである。

美術家は通信を伝える道を心得ていなければならないように、観覧者は通信を受けるに適当な態度を養わなければならない。
無言のものに耳を傾け、見えないものを凝視する。

今日は工業主義のために真に風流を楽しむことは世界至るところますます困難になって行く。われわれは今までよりもいっそう茶室を必要とするのではなかろうか。

かつてそれを用いて食事をし今はなき人を思い出させるのであるか。 茶室は簡素にして俗を離れているから真に外界のわずらわしさを遠ざかった聖堂である。ただ茶室においてのみ人は落ち着いて美の崇拝に身をささげることができる。

この点においてもまた日本の室内装飾法は西洋の壁炉やその他の場所に物が均等に並べてある装飾法と異なっている。西洋の家ではわれわれから見れば無用の重複と思われるものにしばしば出くわすことがある。背後からその人の全身像がじっとこちらを見ている人と対談するのはつらいことである。肖像の人か、語っている人か、いずれが真のその人であろうかといぶかり、その一方はにせ物に違いないという妙な確信をいだいてくる。お祝いの饗宴に連なりながら食堂の壁に描かれたたくさんのものをつくづくながめて、ひそかに消化の傷害をおこしたことは幾度も幾度もある。何ゆえにこのような遊猟の獲物を描いたものや魚類果物の丹精こめた彫刻をおくのであるか。


室の装飾に用いる種々な物は色彩意匠の重複しないように選ばなければならぬ。生花があれば草花の絵は許されぬ。丸い釜を用いれば水さしは角張っていなければならぬ。

人物は見る人みずからの姿として現われているのであるから。実際われわれは往々あまりに自己をあらわし過ぎて困る、そしてわれわれは虚栄心があるにもかかわらず自愛さえも単調になりがちである。

真の美はただ「不完全」を心の中に完成する人によってのみ見いだされる。

装飾の単純、装飾法のしばしば変化するのになれている日本人の目には、絵画、彫刻、骨董品のおびただしい陳列で永久的に満たされている西洋の屋内は、単に俗な富を誇示しているに過ぎない感を与える。一個の傑作品でも絶えずながめて楽しむには多大の鑑賞力を要する。してみれば欧米の家庭にしばしば見るような色彩形状の混沌たる間に毎日毎日生きている人たちの風雅な心はさぞかし際限もなく深いものであろう。

人はいろいろな音楽を同時に聞くことはできぬ、美しいものの真の理解はただある中心点に注意を集中することによってのみできるのであるから。



伝統や型式に屈従することは、建築に個性の表われるのを妨げるものである。現在日本に見るような洋式建築の無分別な模倣を見てはただ涙を注ぐほかはない。われわれは不思議に思う、最も進歩的な西洋諸国の間に何ゆえに建築がかくも斬新を欠いているのか、かくも古くさい様式の反復に満ちているのか

また過去の創作物を無視せよというのではなくて、それをわれらの自覚の中に同化せよというのである。

芸術が充分に味わわれるためにはその同時代の生活に合っていなければならぬ。それは後世の要求を無視せよというのではなくて、現在をなおいっそう楽しむことを努むべきだというのである。

組み立て取りこわしの容易なわが国の木造建築のようなある建築様式

利休の求めたものは清潔のみではなくて美と自然とであった。

茶人に第一必要な条件の一は掃き、ふき清め、洗うことに関する知識である

日中でも室内の光線は和らげられている。傾斜した屋根のある低いひさしは日光を少ししか入れないから。天井から床に至るまですべての物が落ち着いた色合いである。客みずからも注意して目立たぬ着物を選んでいる。古めかしい和らかさがすべての物に行き渡っている。ただ清浄無垢な白い新しい茶筅と麻ふきんが著しい対比をなしているのを除いては、新しく得られたらしい物はすべて厳禁せられている。茶室や茶道具がいかに色あせて見えてもすべての物が全く清潔である

それにその建築に用いられている材料は、清貧を思わせるようにできている。しかしこれはすべて深遠な芸術的思慮の結果であって、細部に至るまで、立派な宮殿寺院を建てるに費やす以上の周到な注意をもって細工が施されているということを忘れてはならない。

茶室は見たところなんの印象も与えない。それは日本のいちばん狭い家よりも狭い。

始めて独立した茶室を建てたのは千宗易、すなわち後に利休という名で普通に知られている大宗匠で、彼は十六世紀太閤秀吉の愛顧をこうむり、茶の湯の儀式を定めてこれを完成の域に達せしめた

西洋とは全く趣を異にする茶室の微妙な美しさ、その建築の原理および装飾が門外漢に充分にわかろうとはまず予期できないことである

真理は反対なものを会得することによってのみ達せられる。

虚は美的感情の極致までも入って満たせとばかりに人を待っている。

何物かを表わさずにおくところに、見る者はその考えを完成する機会を与えられる。

今や茶は生の術に関する宗教である。茶は純粋と都雅を崇拝すること、すなわち主客協力して、このおりにこの浮世の姿から無上の幸福を作り出す神聖な儀式を行なう口実となった。







利休さんも凄まじくすごいのだけど、著者も同じくらいすごいです。
何がすごいかというと、僕的には人間の真理を的確に抑えているところです。
こんな方と日本語でぜひお話してみたいな、と思います。


内容で一番面白かった部分は、茶室の微妙な美しさと、西洋の建物との対比。
たしかに外国の家って見栄えがするのだけど、茶室にあるような無駄のない余白のある美しさみたいなものがないな、と
思いました。だから、なんだかこれを読んだとき、「日本人で良かった。」なんて思ったりしました。
そして、大人になった今、もう一度ちゃんと茶室というものをこの目で理解したいなぁと思いました。



お茶についての本のはずが、立派な哲学書になっているので、びっくりでした。
ぜひたくさんの人に読んでほしい一冊。


料理の第一歩 (北大路 魯山人)

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心構え。




・わたしたちは、したいと思っても、しようと思うのはなかなかだ。
 しようと思っても仕上げるまでには時を必要とする。
 だが、したいと思っている心を、しようと決心するには一秒とかからない。

・考えることも大切だ。聞くことも大切だ。実行することはもっと大切なことだとわたしは思う。

正しいこと、いいことを考え、間違ったことを少しもいわないひとびとがいる。そして一つも実行しない人間もいる。

世の中には、こんな頭の大きい男がたくさんいる。わたしは、この気味のわるい男の話をときどき思う。

・とうとう食べるものがなくなると、男は小さくなった自分の足を食べてしまった。
 でも、男は考えを止めなかったので、いよいよ頭が大きくなっていった。
 食べるものがないので、自分の胴を食べ、手を食べてしまった。
 おしまいに、この男はもう食べるものがなくなって、考える頭と食べる口だけになってしまった。
 この男の考えることは、一つも間違ったことはなかった。ただ一つも行わなかっただけであった。
 こうしてこの男は考えてばかりいるうちに、だんだん頭が大きくなっていった。
 少しも働かぬので、手や足はだんだん小さくなっていった。








料理の心構えというより、実行するかしないかの問いかけみたいなものでした。
もちろん料理についても同じことが言えますが。


考えごとばかりで何一つ実行しない男性の頭が大きくなっていく表現は面白いなぁと思いました。
自分も今そんな状態なんじゃないかと思って、考えて考えて考え抜いたことがあるのならば、
あとは実行のみだ!!と改めて教えられたのでした。

短い文章の中でありながら、励まされるものがありました。

交尾 (梶井 基次郎)

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・それから彼らは交尾した。爽やかな清流のなかで。
 ――しかし少なくとも彼らの痴情の美しさは水を渡るときの可憐さに如かなかった。
 世にも美しいものを見た気持で、しばらく私は瀬を揺がす河鹿の声のなかに没していた。

・科学の教えるところによると、この地球にはじめて声を持つ生物が産まれたのは石炭紀の両棲類だということである。
 だからこれがこの地球に響いた最初の生の合唱だと思うといくらか壮烈な気がしないでもない。
 実際それは聞く者の心を震わせ、胸をわくわくさせ、ついには涙を催させるような種類の音楽である。

・その伝播は微妙で、絶えず湧き起り絶えず揺れ動く一つのまぼろしを見るようである。

・この互いに絡み合っている二匹の白猫は私をして肆な男女の痴態を幻想させる。
 それから涯しのない快楽を私は抽き出すことが出来る






著者の感覚の鋭い部分がよく出ている短編だと思います。
(あまり梶井さんのことを知らないのだけど)

河鹿(かじか)の鳴く声からこんなに鮮やかに思想を膨らませることができるのは、ただただ見事なのでした。


ちなみにどんな声なんだろうと調べると、本当に美しい声でびっくりしました。
こんなカエルもいるんですねぇ。趣があります。


愛撫 (梶井 基次郎)

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猫に対するモノの見方。


快い猫の重量。温かいその蹠。私の疲れた眼球には、しみじみとした、この世のものでない休息が伝わって来る。

爪のない猫! こんな、便りない、哀れな心持のものがあろうか! 
 空想を失ってしまった詩人、早発性痴呆に陥った天才にも似ている!

・猫は耳を噛まれるのが一番痛い

・猫の耳は奇妙な構造を持っている。というのは、一度引っ張られて破れたような痕跡が、
 どの猫の耳にもあるのである。その破れた箇所には、また巧妙な補片が当っていて、まったくそれは、
 創造説を信じる人にとっても進化論を信じる人にとっても、不可思議な、滑稽な耳たるを失わない。
 そしてその補片が、耳を引っ張られるときの緩めになるにちがいないのである。

・私は子供のときから、猫の耳というと、一度「切符切り」でパチンとやってみたくて堪らなかった。
 これは残酷な空想だろうか?







著者の猫の愛し方がよく分かります。
そしてその表現の仕方がただただ圧巻なのです。
猫の耳を切符切り的にパチンとしたくなる気持ちも、狂気が入り混じるほどの猫への愛情と捉えるべきでしょうか。

こんなもの読んだら猫がますます好きになるに違いないです。


檸檬 (梶井 基次郎)

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なんと鮮やかな檸檬の描き方。



・もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなにおもしろいだろう。
 私はこの想像を熱心に追求した。「そうしたらあの気詰まりな丸善も粉葉みじんだろう」

・私は変にくすぐったい気持がした。
 「出て行こうかなあ。そうだ出て行こう」そして私はすたすた出て行った。

私は何度も何度もその果実を鼻に持っていっては嗅いでみた。
 それの産地だというカリフォルニヤが想像に上って来る。


いったい私はあの檸檬が好きだ。レモンエロウの絵具をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色も、
 それからあの丈の詰まった紡錘形の恰好も


・その果物屋は私の知っていた範囲で最も好きな店であった。そこは決して立派な店ではなかったのだが、
 果物屋固有の美しさが最も露骨に感ぜられた。
 果物はかなり勾配の急な台の上に並べてあって、その台というのも古びた黒い漆塗りの板だったように思える。
 何か華やかな美しい音楽の快速調の流れが、見る人を石に化したというゴルゴンの鬼面――的なものを差しつけられて、
 あんな色彩やあんなヴォリウムに凝り固まったというふうに果物は並んでいる。
 青物もやはり奥へゆけばゆくほど堆高く積まれている。――実際あそこの人参葉の美しさなどは素晴しかった。
 それから水に漬けてある豆だとか慈姑だとか。

・あのびいどろの味ほど幽かな涼しい味があるものか。

・あの安っぽい絵具で赤や紫や黄や青や、さまざまの縞模様を持った花火の束

・私の錯覚と壊れかかった街との二重写しである。そして私はその中に現実の私自身を見失うのを楽しんだ。





初めて梶井さんの本を読んだのですが、ほんとにおもしろかったです。ほ・ん・と・に。
特にこの短編は檸檬について語られていたので、果物好きのぼくとしては外せません(26年間外してきたが)。

読み終わった後は、この本をもっと早くに読んでおくべきだった、と後悔するほどにすばらしいです。
何がすばらしいかって、その文章。檸檬をここまで愛したたった一文が今まであったでしょうか?
そしてこの先、あるようには思えないほどの完璧っぷりなのでした。

天才。


おやゆび姫 (ハンス・クリスチャン・アンデルセン)

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ちいさなちいさなお姫様のおおきなおおきなぼうけん。


・夏の間、木がみんな緑づいたときも、あつい日ざしが照っていたときも、楽しく歌ってくれてありがとう。







感動したのは、おやゆび姫の純粋な心。
こういうのを本当の純粋さというのだろうなぁと思いました。

辛い目にあってもなお他人を助けようとする、自分を犠牲にしようとする、
そんな彼女のやさしさと強さに、憧れさえ抱いてしまいそうな想いで読みました。


赤字の台詞、現実世界でもぜひ鳥さんたちに言ってみたいですね。
変な奴呼ばわりされるかもしれませんが。素敵な台詞です。

マッチ売りの少女 (ハンス・クリスチャン・アンデルセン)

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誰もが知っているショートストーリー。



・「だれかが死ぬんだ……」と、少女は思いました。
 なぜなら、おばあさんが流れ星を見るといつもこう言ったからです。
 人が死ぬと、流れ星が落ちて命が神さまのところへ行く、と言っていました。





流れ星にこんなモノの見方があったんだなぁ、と思って面白かったです。
ぼくにとって流れ星は「願いが叶うもの」っていうイメージしかなかったからです。
合わせて考えると、流れ星には死と生が関係しているんですね。

誰かが死ぬことで誰かの夢が叶う、なんて言ったら罰当たりですが、
悪いことがあれば良いことがある。陰と陽のバランスというか、
そんな人生の不変な部分をマッチ売りの少女の短いストーリーから垣間見たような気分になったのでした。




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