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姑と嫁について (与謝野 晶子)

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まだ私は家系、家風などという物も少しも尊重すべき物と思っていないのであるから、子供らが何処へ行って自治の生活を始めてもそれを祝福する外に何の註文もない。独立するに至った我子には絶対に干渉しないつもりであるから親の名を以て威圧がましいことをしないのは勿論

在来の父母舅姑は我子夫婦から財養し孝養されることを望んだのであるが、私は我子が独立し得るまでの教育にはあくまでも力を竭す覚悟でいる代りに、我子からその報償を得ようとは毛頭考えていない。

若い男女を教育する設備はいくらもあるが、専ら老婦人を教育する会合はまだ何処にも起っていない。老婦人の多く集る諸種の会合はあっても、それは凡て物見遊山の変形で、老婦人同志の奢侈と自慢の競進場たるに過ぎない

読書欲の全く欠けている多数の老婦人たちが今更他の勧めに従って無為の時間を多少でも新書の研究に善用しようとは考えられない。しかし老婦人たちを在来の姑根性から脱して明るく快濶な性情の人と改造するには現代の思想を何かの方法で理解させることが必要である

月経閉鎖期前後の婦人の心理というものがヒステリイ的にいろいろの症状を呈するのは顕著な事実

老婦人の中には早く良人に別れたり、また良人があっても愛情が亡くなっていたりして心寂しい生活を送っている人がある。そういう婦人は子供の愛だけがせめての慰安であり生活の力であったのに、子供に嫁が出来れば嫁は子供に対する愛の競争者である。そして結婚以後の子供の心理が母に対して幾分疎縁になるのも、またそれについて母が孤独の寂しさと嫁に対する一種の嫉妬とを感じるのも自然の人情であろうと想われる。

社会の要部が老人と青年とで成立つものである以上、老人と青年との意志が疏通しなければ社会は順調に進歩しない訳である


数年前に私は老人教育の必要であることを述べた。日本の教育という意味が青年教育ばかりに偏しているので、青年の思想はどしどし前へ進んで行くのに、老人は一度若い時に教育されたきりであるからその思想は過去のままに乾干びている

私は自分の息子のように嫁を愛し、あるいは蔭に廻って嫁を弁護するほどの美質を持った理想的の姑が甚だ稀に世にあることを認めるが、それは勿論尊敬すべき姑である。しかしいわゆる姑根性を脱しない大多数の姑たち

また妻という人は新聞紙に由れば普通の教育もあり、常識もあり、良人との仲も睦まじく、所帯持も好く、快濶ではないが優しい中に熱烈な所のある婦人で姑と嫁のある日本の家庭の大多数に伏在している。姑が嫁を愛するというような事は昔の清少納言も珍しい物の中に引いている通りむしろ例外

新聞紙の伝うる所に由れば、姑という人は明治以前の思想をそのままに墨守して移ることを知らず、現代の教育を受けた若い嫁の心理に大した同感もなく、かえって断えず反感を持って対し、二言目には家風を楯に取り、自分の旧式な思想を無上の権威として嫁の個性を蹂躙し圧倒することを何とも思わず、聞き苦しい干渉と邪推と、悪罵と、あてこすりとを以て嫁を苛めて悔いぬような、世にいう姑根性をかなり多く備えた婦人であるらしい






与謝野さんと一度お話してみたかったなぁと思わされる本でした。
ご高齢の方たちの頭がもっとやわらかかったら(やわらかい人もいますけども)、たしかに日本はもっとよくなると思いました。でもそれと同時に子どもたちの教育の質を上げることも大事ですよね。難しいものです。



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遺書 (与謝野 晶子)

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洋服などは直ぐ小くなるのですから下へ譲つて行かなければならないではありませんか、さうした物質的のことで親の愛の尺度は解るものではありません。

世の中のことは二三年もすれば信じ切つて居た物の中から意外なことを発見するものであるなどと、私は人間全体の智慧の乏しさ

それには涙に匂ひが附いて居るので

亡霊になつてからまだあなたのお顔だけはしみじみと見たことが初めの一度きりしかないのです。

双生児と云ふものは普通人の想像の出来ない愛情を持ち合つて居るもので、まだ生れて四五月目から泣いて居る時でも双方の顔が目に映ると笑顔を見せあつたあなた達

大人ならば到底眠れないだけの悲痛な音がこの子の心臓に鳴つて居る筈である





双生児への想いに、なるほどと、そしてなんて神秘的なんだろうと思った。

離婚について (与謝野 晶子)

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浅薄な表面の装飾や衒いでなく、全人格を挙げて立派に装飾し、それを女子の誇とするように力めねばなりません。美しい衣服を著るにも、読書をするにも、文学や美術を嗜むにも、常に立派な娘に成る、完全な人間に成るという心掛が必要です
今の家庭や学校教育が頼みにならぬとすれば、若い女子自身が各々自分の「娘」時代を尊重して我手で立派な人格を修養せられる事が何より大切な急務だと思います。

離婚は講和でなく戦争

秋子女史はまた「某実業家は常常子弟に向い、世に処して成功しようと思うには女房に惚れなくては不可んと言われたそうですが、誠に味うべき言葉で、気に食わぬ点はなるべく寛大に見て、自分の妻以外世間に女はないというほどに取扱ってこそ家庭は円満に参るものだろうかと存じます」といわれました

今の教育が単に学校を卒業した男子と、時世遅れの良妻賢母主義に合う女子とを作る事にのみ急で、肝腎の「人格を完備した男女」を作る事を忘れ

趣味が人格を形造るほどに高くなれば、甲と乙と趣味の種類が違っていても双方互にその趣味を尊敬し合うようになってその間に調和が出来るものです

一人の夫や両人の舅姑や自分の生んだ子供に対する心掛などは、その場に臨めば大抵の女に自然会得が出来るものです。また割烹の法とか育児法とか申す事位は、台所で母や下女と相談したり、出入の医者に聞いたり、一、二冊の簡便な書物を読んだりしても解る事です。かような事を倫理だとか学問だとか申して高等な学校で教えるのは馬鹿げていると私は常に考えております。

女子大学などと申す立派な名義の学校まで出来ながら、多数の生徒は何を習っているかといえば、良妻賢母主義の倫理と家政科と言う割烹の御稽古

『朝日新聞』に出た諸先生の御説を拝見しますと、女子音楽学校長の山田源一郎先生は「既に一個の家庭を持った以上はやはり夫唱婦和でなければ成立って行かぬであろう」と申されましたが、今の世の中に男も女も人形のような者でない以上、この夫唱婦和という子供の飯事みたいな手緩い生気のない家庭は作れまいかと存じます。





見事な本だった。
離婚は、戦争。

私娼の撲滅について (与謝野 晶子)

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娼婦とは奴隷の一種である

経済上の独立精神と独立能力との麻痺した女が、良心と肉体とを男子に捧げて財物と換えることが娼婦の職業である。

男には強健な体質を持っている限り、そうして克己的の節制を加えるだけの理性と意志の微弱である限り、一婦との接触に甘心しておられないような性欲の過剰がある
また体質の如何にかかわらず他の新しい婦人との触接に由って享楽しようとする欲望、或学者のいわゆる性欲上の好新欲が男にある。

女の性欲は概して消極的、受動的である。少くも男のようにやむにやまれないような強烈な自発がない(かようなことは在来の習慣として女の口から述べることを憚る所であるけれど、私は人間の真実を研究する必要から押切って言おう)。

殊に純潔な処女にあっては性欲の肉体的自覚は全く眠っている。異性に誘導されない若い女が性欲に対する好奇心は感じていても、徴兵適齢前の男が早くもその肉体的自覚に悩むような性欲の自燃自爆を見ることは全くない。病的としての特例はあるであろうが、一般の女についてこの性欲の消極性は真実であると私は思う。

太抵の若い女は男に比例するだけの性欲を知らずに母となってしまう。そうして妊娠時や産後やにおいてかえって著しく性欲の減退を余儀なくされる。
この性欲の不平等が概して男を反貞操的たらしめ、女を貞操的たらしめる重要な原因となる。

男が一人の愛する女を守るには概して肉体上の苦痛が伴う。少くも理性と意志を以て肉体を制御して性欲を転化するだけの克己的努力を要する。女が一人の愛する男を守るには、精神的にも肉体的にもそれが自然の経過である如く極めて容易である。若い男は性欲に由って自動的に堕落する。若い女は直接自らの性欲に由って堕落することはない。性欲に対する好奇心からも堕落するには到らない。若い女が性的に堕落するのは男の脅迫もしくは誘惑と、女自身の無力、無智、無財産、依頼心、遊惰性と、女を今日のような弱者の位地に置く社会的事情とがその原因を成すのである。

娼婦がまだ発生しなかった蒙昧時代の男は、腕力で多数の女を脅迫して、その強烈な性欲と性欲の好新欲とを満足させていた。それは現に動物界で見るような状態であった。

女は奴隷として男の性欲遂行に奉仕するばかりでなく、奴隷として男のために耕作、紡織、家事、育児等に役立たねばならなかった。女の労働から得る財貨は当然男の所有に帰するのであった。

良心と肉体とを男に対して売ることを余儀なくせられる二種の女が生じた。第一種は長期の生活の保障を得るために一生を男に託する女、即ちその当時の妻たり妾たる者がそれである。第二種は短期の生活の保障を得るために一夜を男に託して遊楽の器械となる女、即ち娼婦のともがらである。この第二種の女には労働を避けて物質的の奢侈を得ようとする遊惰性と虚栄心に富んだ女が多く当った。
その二種の女が後世になって、一は妻及び妾たるその位地を倫理的に――仏教、儒教、神道、武士道が妾を是認した如く――正しいものとして認められ、一は醜業婦として倫理的に排斥せられるに至ったのは、男に便利な妻妾の制度を男が維持する必要からの便宜手段であって、男の倫理的観念が妻及び妾に対等の人権を認めるまでに進歩したからではなかった。男はその独占欲から妻妾の貞操を厳しく監視するにかかわらず、男自身の貞操を尊重しようとはしなかった。妻妾の貞操は偏務的のものであった。そうして男は妻妾以外に娼婦との触接に由てその性欲の好新欲を満足させるのであった。

妻の意義は近代に至って大に変化している。しかし現代の妻たる婦人の中にも、愛情と権利との平等を夫婦の間に必要としないで、なお昔の第一種の売淫婦型に甘んじている者が尠くない。

それらの婦人が自己の醜を忘れて、第二種の売淫婦ばかりを良心の麻痺した堕落婦人であるように侮蔑するのは笑うべきことである。私はそれらの婦人が醜業婦を憎むのを見るたびに、彼らは無意識に商売仇を憎んでいるのであるという感を禁じ得ない。

一定の場所に集って売淫するものを集娼といい、個々に諸処へ散在して売淫するものを散娼というのであるが、公娼にも巴里のそれのように散娼と集娼とがあり、私娼にも散娼と集娼とがある。 これらの娼婦が倫理的及び衛生的にその女自身を腐敗させるばかりでなく、倫理的及び衛生的に人類を毒するものであることはいうまでもない。この意味において主張せられる廃娼説の正しいことは何人も認める所である。しかし廃娼説を実行に移そうとすると、娼婦の発生するいろいろの原因から先ず絶滅して掛らねばならないことに何人も気が附く。そうしてそれらの原因が現在の文明程度において一朝一夕に絶滅し得られるものでないこと

私は有妻者にして公私の娼婦を買う男の尠くないことを知っている。それらの男の性欲の過剰と好新欲とは、男自身に反省して克己と節制の習慣を作ると共に、その旺盛な性欲的能力を他の労働もしくは精神的作業に転換するように努力すればその放恣を防ぎ得るものであろうと私は想像する

私は近く政府が学生の売淫を取締ろうとする以上に、有妻の男の買淫をも厳しく取締って欲しい。

独身男子の性欲が或程度以上に自制しがたいものであり、また人生に享楽の自由が或程度まで許さるべきものでありとすれば、主としてそれらの男子が娼婦を要求することはやむをえない。不徳であるが寛仮さるべき不徳である。但し人間が人間の肉体を買うという事実が、文明生活の理想に乖いた不徳であり、公衆の間に多大の羞恥を感ずべき行為であることをあくまでもそれらの独身男子と娼婦とに自覚させることは、併せて衛生思想を自覚させると共に緊要である。このことは国民一般が相戒めねばならぬことは勿論であるが、政府にもまた或程度までこれに対する用意があって欲しい。

私は内務省が先きに絶滅させる必要のある、そうして絶滅させることの容易な公娼を存して置いて、絶滅させることの難い、そうして存置する方が公娼よりも害毒の露骨でない私娼を撲滅しようとするのを見て、その無駄な努力を惜むよりも、更にその社会的影響の好くないことを想う者である。内務省の真意は公娼を倫理的に公認するのではないのであるが、世の公娼営業者、多数の放恣な男子及び多数の無智な女子はその意味に解釈しようとするであろう。






与謝野晶子さんの本を最近よく読むのですが、このお方ほんとうにスゴイですね。
今までお名前しか知らなかったので、なんとも失礼なことをしていたと気付きました。
なんとも先進的な考え。今の時代ですら十分すぎるほどに通用する考えは、現代の人の心にも真っ直ぐに響くでしょう。
こんなモノの考えがこの本が出た1916年ころに生まれているに驚きなのでした。

こういう本がもっと一般的に広まってしまえばいいのにと思いました。

姑と嫁に就て(再び) (与謝野 晶子)

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私は問ひたい、女に對する公平な批判と云ふものが日本の何處にあるのですか。私は今の場合、男を批難することは七分、女を批難することは三分の割合でせねば公平を得られないと思つて居ますが、かう云ふ意見を誰に同意して頂くことが出來るでせうか。姑と云ふものは女でありながら男の横暴を其同性の若い人間に加へる者です。さうして今日では第一に教育者が其姑の味方です。

太抵は嫁の方で生きた死骸になつて諦めてしまひます

男子自身のために作った道徳習慣が勢力を張つて居る不完全な社會状態

在來の道徳習慣を以て嫁に迫る姑は鋭利な刄物にも優る怖ろしい武器を以て嫁の個性を虐殺しようとする人です。

老婦人達が無智なために人間としての自己の自由を男子に蹂躙されて悲痛を感じないのは致方がないとしても

老婦人の無智は概して若い女の無智よりも甚しいと思ひます。





一番上の文章、「私は今の場合、男を批難することは七分、女を批難することは三分の割合でせねば公平を得られないと思つて居ます」というところ。
2014年現在でも十分通用すると思いました。

男がなぜか(本当になぜと思うが)優遇されがちな世の中は、なんとなくげんなりしてしまいますね。
いい加減新しい世界が見たいものです。


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Hiro

Author:Hiro
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