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東西ほくろ考 (堀口 九万一)

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此の如く心の動きを表情を美の一大資格としてある西洋に於て、黒子が美となるのは自然の勢である。何故かといへば、黒子は表情を助けて是を強調せしむるに大いに役立つからである。

ポンパドール夫人が美人中の美人である所以は、何よりもその表情の早き動きであると断定し、そしてその表情の変化と同時に、その顔面の賑やかさは、実に言語に絶する程で、約言すれば彼女の霊魂の絶え間なき動きを、その艶麗と嬌媚との間に自然に現はすのであるから、男の心を動かし、唆り、挑発し、是を魅惑するにはこれ以上力の強いものはないといつてゐるのである。

だから嬌艶も、婀娜も、又は内部の熱情も、心の内に静かに籠めてゐて、是を外部に現はさない所謂喜怒哀楽を色に現はさないのである。随つて自から表情のない顔面なのである。まんざらないでは無いにしても、どうも表情が薄いのである。 然るに西洋では、是に反して、表情を主とし、表情が欠けてゐては美人でないとしてあるのである。だから西洋の美人の形容詞には、東西共通の、沈魚落雁、閉月羞花とか、花顔柳腰明眸皓歯とかといふ美人に共通の資格の外に、「動」といふものが美人の美人たる資格の内に含まれてゐるのである。此処が大いに東洋とは異なる点である。



東洋と西洋とでは、美人に関する見方の違ふことも、亦この問題に大なる関係があるやうに思はれる。東洋の美人に関する形容詞を見るに、端正、静粛、挙止幽間などと、専ら「静淑」を婦人の一美徳とし、同時に婦人美の一つの資格としてある。随つてその外部に現はれる形としては、よく前後左右の釣り合、即ちシンメトリーが取れて正整して居らねばならぬのである。

加之、東洋人は髪の毛も、目の色も共に黒いのであるから、黒子は邪魔にこそなれ、決して美を増すものとはならない。 然るに白晢人種の西洋人にあつては、その蒼白いやうな顔面に一点黒色の「ムーシユ」は、白と黒とのくつきりした反対色の作用で白色は益〻白く光彩を放ち、美は益〻美しく見えるのである。是に加ふるに、西洋人の目の色の薄青く、その髪の色のシアーテン(焦げ茶色)、ブロンド(茶褐色)又は金髪、甚しきに至つては白色かと怪しまれる程の淡黄色なのさへもあるので、一点黒色の「ムーシユ」の為めに、顔全体に活気を生ずる効果を齎らすからである。

東洋人の黄色い顔面に於ける「ほくろ」は、黄色と黒色との色調がそぐはぬので「ほくろ」があれば顔が却つて醜く見えるのである。

東洋では「ほくろ」を贅物として邪魔物扱ひにし顰蹙してゐるのに反して、西洋では厄介視せず、否寧ろ是を艶美を増すところの「美の豆粒」として尊重し、人工的にさへ是を模倣するに至つた原因は何であるかを尋ねてみるに、臆説ではあるが、それは東洋人と西洋人との皮膚顔面の色や、毛髪や、眼の色を異にしてゐるのが、その第一の原因ではなからうかと思はれる。

だから西洋では日本のやうにそれを抜き取るどころではなく、否却て是を大切にするのである。

「ほくろ」黒子、黶子(愚管抄には「ははくろ」とあり、「ははくそ」の転。その再転化なり。)古くは「ハハクソ」今又「ホクソ」人の皮膚に生じて小さく黒く点を為せるもの」としてある。そのやうに「ははくそ」「ホクソ」であつて、つまり「くそ」なのである。 処がほくろは西洋では「くそ」どころではない。大切なものである。その名からして艶麗である。西洋では「ほくろ」のことをグレン・ド・ボーテ(〔grain de beaute'〕)と云ふ。翻訳すれば、「美の豆粒」と云ふのである。

西洋では、黒子を美貌の道具立ての一つに数へて尊重してゐるのである。

東洋と西洋とは、その風俗習慣に就て、いろいろ異つた点が多い中で、特に黒子に関する観方ほど異つてゐるものはなからうと思はれる。





なかなかおもしろかったです。こんなに黒子のことを考えたことがなかったので。
それにしても東洋では黒子は「クソ」で、西洋では「美の豆粒」の違いには大笑いしました。

ぼくも自分の顔には黒子はいらないなぁ、と考えているタイプなのですが、確かに西洋の人の顔に黒子があったら、
なんだかかっこよく、色っぽく見えたりするなぁなんて感心しました。


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Hiro

Author:Hiro
読んだ本の記録。忘れたくない言葉。

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