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植物一日一題 (牧野 富太郎)

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シソもエゴマも元来は同種異品のものであるが、その用途は違っている。すなわち紫蘇は西洋ではその葉の紫色を愛でて観葉植物となっているが、日本ではよい香のあるその葉がアオジソとともに香味料食品となっている。エゴマ(荏)はそのタネから搾った油を荏の油と称し、合羽、傘などに使用し、また食料とする

すなわち薩州藩主の島津吉貴(浄園公)が琉球からその苗竹を薩州鹿児島に致さしめたによるのだが、それは元文元年(1736)であった。それからこのモウソウチクで薩摩を起点として漸次に我国各地に拡まって、やがて竹類中の宗となった。

モウソウチクは元来中国の原産であるが、それが昔同国から琉球へ渡り、琉球からさらに日本の薩摩に伝わった、

中国の桜桃はその花は大して観るには足りないが、しかしその実が赤く熟して食用になる。ゆえに『本草綱目』などではそれを果部へ入れてある。日本ではこれを支那実ザクラと呼んでいる。

桜桃は中国の特産で日本にはない(栽植品は別として)一つの果樹であって花木ではない。

ナシ、リンゴなどの食う部分は、つまるところこの茎である

ナシ、リンゴ、キュウリ、スイカなどはみな植物学上でいう下位子房(Inferior ovary)を持っていて、その子房が成熟して果実となっている。ゆえにその果実はウメ、モモ、カキ、ミカン、ブドウ、ナスビなどのように純粋な果皮を持った果実とは違って、その子房は他の助けを借りてそれと仲よく合体したものである。つまり瘤付きである。ゆえにその果実の内部の中央の方は本当の子房からなっているが、外側の方はその付属物である。そしてその食える部分はすなわちこの付属物であって、中央の子房はキュウリ、スイカなどは軟くて全部一緒に食えるが、ナシ、リンゴなどは食うにしてもそれが食えないのである。

オランダイチゴの食う部分は花托だから、じつをいえば変形せる茎を食っているのである。その粒のような本当の果実は犠牲となりお供して一緒に口へはいるのである。果実の食う部分を注意して見るとなかなか興味がある。

植物学的にいえばバナナは下位子房からなっているから、その食う部分は茎からなっている花托であるといえる。ゆえにバナナはつまるところ茎を食っているとの結論に達する訳だ。

バナナ(すなわち Banana これは西インド語の Bonana から出ている)の食う部分はその皮であって、すなわちその中果皮と内果皮とを食っているのである。外果皮は繊維質になっているのでこれを剥げばその内部の細胞質の中果皮と内果皮とから離れる。ゆえに俗にこれはバナナの皮だといっている。この中果皮と内果皮とは互いに一つに融合しておってこの部が食用となるのである。そしてバナナは変形してたとえ種子の痕跡はあっても種子が出来ないから食うには都合がよい。

室の外側の壁面から単細胞の毛が多数に生えて出て来、子房の増大とともにこの毛もともに生長して間もなく室内を填充しかつその大きさをも加える。この果実が熟する頃にはそのミカンの嚢一杯になっている毛の中に含まれた細胞液が酸化し甘くなり、そこで食われ得るミカンとなるのである。つまり毛の中の細胞液を吾らは賞味しているのである。 ミカンの皮は外果皮、中果皮、内果皮の三層からなっているが、その外果皮には多数の油点がある。

ヒマワリの実、すなわち痩果は一花頭に無数あって羅列し、かつ形が太いからその中の種子を食用にするに都合がよい。また油も搾られる。鍋に油を布いてこの痩果を炒り、その表面へ薄塩汁を引いて食すれば簡単に美味に食べられる。

ヒマワリすなわち日回の名も向日葵の名も、こんな意味で名づけられたものである。が、しかしこの花はこの文にあるように日に向かって回ることはけっしてなく、東に向かって咲いている花はいつまでも東に向っており、西に向かって咲いている花はいつまでも西向きになっていて、敢て動くことがない。

ナガイモもまたツクネイモ(ナガイモの一品)もけっしてジネンジョウ(ヤマノイモ)から出たもんではなく、この両品は全然別種に属するものである。

ジネンジョウはやはり「野に置け」の類でその天然自然のものが味が優れているので、これを圃につくってその味を落とすようなオセッカイをする間抜け者は世間にないようだ。やはり山野を捜し回ってジネンジョウ掘りをすることが利口なようである。


この贋のインゲンマメ(Phaseolus vulgaris L.)は上に書いた隠元禅師将来の本当のインゲンマメ(Dolichos Lablab L.)よりはずっと後に日本へ渡来したものである。そしてその初渡来はおよそ三三五年前で、右の本当のインゲンマメの渡来より後れたことおよそ五十年ほどである。ゆえに隠元禅師が日本に来たときには、まだその贋のインゲンマメは我国に来ていなかったから、この豆はなんら隠元禅師とは関係はない。 今日一般に誰も彼もいっているインゲンマメ(贋の)は海外から初め江戸へ先ずはいって来たものらしい。多分外船がもたらしたものであろう。そしてそれが江戸を中心として漸次に関西ならびにその他の諸地方へ拡まっていったもののように想われる。そして江戸をはじめその後諸方でいろいろの方言が生まれたものであって、次のような多くの称えがある。すなわちそれは江戸ササゲ、トウササゲ、五月ササゲ、三度ササゲ、仙台ササゲ、朝鮮ササゲ、ナタササゲ、カマササゲ、カジワラササゲ、銀ササゲ、銀フロウ、銀ブロウ、フロウ(同名あり、不老の意)、二度フロウ、甲州フロウ、江戸フロウ、二度ナリ、信濃マメ、マゴマメ、八升マメであるが、江戸ではまたこれをインゲンマメと呼んでいた。飯沼慾斎の『草木図説』では五月ササゲを正名として用い、トウササゲを副名としている。私の『牧野日本植物図鑑』にもゴガツササゲの名を採択して用いてある。


今日世間でいっているインゲンマメには二通りの品種があって、一つは前に日本に渡ったインゲンマメ、一つはそれより後に渡ったインゲンマメである。元来インゲンマメは昔山城宇治の黄檗山万福寺の開祖隠元禅師が、明の時代に日本へ帰化するため、中国から来た時もって来たといわれているインゲンマメが正真正銘のインゲンマメであり、それから後に日本へはいって来たのが贋のインゲンマメである。すなわち前入りのものが本当のインゲンマメで、後と入りのものが贋物のインゲンマメだ。そしてこの後と入りのものはじつは隠元禅師とはなんの関係もなく、つまりこのインゲンマメのインゲンは隠元の名を冐したものにすぎない。地下で禅師はきっと、オレの名をオレとは無関係の今のインゲンマメに濫用して、わしを無実の罪に落とすとは怪しからんと、衣の袖をひんまくり数珠を打ち振り木魚を叩いて怒っているであろう。 隠元禅師がもって来たと称する本当のインゲンマメは Dolichos Lablab L. という学名、Hyacinth Bean または Bonavist または Lablab という俗名のもので、これに白花品と紫花品とがあって共にインゲンマメと総称している。

Yam という字がある。ロブスチード氏の『英華字典』には大薯と訳してあるが、これは薯と訳すれば宜しく大の字はいらない。このヤムは Dioscorea(薯蕷ノ属)属中の数種の薯を指した名である。Chinese Yam はナガイモの名であるから、ヤマノイモは Japanese Yam といっても不可ではなかろう。そうするとツクネイモも Tsukune Yam でよいだろう。

ヤマノイモもナガイモも共に蔓上葉腋にいわゆるムカゴ一名ヌカゴすなわち零余子ができる。今これを採り集めて植えると幾らでも新仔苗がはえて繁殖する。またムカゴは無論食用にもなる。

クログワイ、オオクログワイは生でも食えるけれど、これはじつは塊茎で真の根ではない。サツマイモは真の根だけれど、それは子供等がいたずらにかじっているくらいで、一般には誰も生ま薯を賞味することはない。

トロロにするにはヤマノイモ(一名ジネンジョウ)の方がまさっている。ナガイモの方には粘力が比較的少なくて劣っている。そしてこのように生のまま食う根は他にはない。

フキはキク科に属していて Petasites japonicus Miq. なる学名を有し、我が日本の特産で中国にはないから、したがって中国の名はない。

フキは僧昌住の『新撰字鏡』にはヤマフヽキとあり、深江輔仁の『本草和名』にはヤマフヽキ一名オホバとあり、また源順の『倭名類聚鈔』にはヤマフヽキ、ヤマブキとある。これでみればフキは最初はヤマフヽキといっていたことが分る。すなわちこのヤマフヽキが後にヤマブキとなり、ついに単にフキというようになり今日に及んでいる。そしてフキとはどういう意味なのか分らないようだ。

スイカ、マクワウリは子房からの中身を食し、ボウブラ、カボチャ、シロウリ、ツケウリは主に花托からなった部分を食し、キュウリは通常その両部分を食している

マクワウリの漢名は甜瓜である。すなわちこれはその味が特に他の瓜より甘いからである。甜は甘いことである。

マクワウリは真桑瓜と書く。この真桑瓜は美濃本巣郡真桑村の名産で、昔からその名が高く、それでこの瓜をマクワウリと呼ぶようになって今日に及んでいる。

日本のクリはその学名は Castanea crenata Sieb. et Zucc. で、西洋での俗名は Japanese Chestnut である。そしてクリの語原は黒い意味でその実の色から来たもんだ。これは日本の特産で中国にはない。

支那栗すなわちアマグリは実の渋皮がむけやすく味が甘いのが特徴である。

元来栗というのは中国産のもので、今それを学名でいえば Castanea mollissima Blume であり、西洋での俗名は Chinese Chestnut であって、あの町で売っているいわゆる甘栗がすなわちそれである。この栗は少しは今日本に植えられているようだが、しかしまだ日本でなった実が市場に出ることはなく、そして出るほど多量な実は今日日本では稔らない。それは畢竟その樹を大量に植えないからである。しかしこの栗は通常日本ではなかなかに実の着きが悪いといわれる。

しかしこの時分でも西瓜の変わり品が幾種かあって、円いのも長いのもまた皮に斑のあるものもあった。そしてその名もいろいろで、例えば白スイカ、木津スイカ、赤ホリ(伊勢赤堀村の産)、長スイカ、ナシキンなどである。また当時皮と瓤とが黄色でアカボウと呼ぶものもあった。また皮は緑色で中身の瓤が黄色の黄スイカもあった。また袖フリという極く小さい西瓜もあった。 中国人は常に種子を食する習慣がある。すなわち歯でその皮を割りその中身の胚を味わうのである。食べ慣れないとなかなか手際よくゆかない。それにはその種子が大きくないと叶わんので、中国では特に種子食用の西瓜がつくられていると聞いたことがあった。

深緑色球形のスイカは徳川時代から明治時代へかけての普通品

貝原益軒の『大和本草』によれば、スイカは寛永年中に初めて異国から来たとある。

ところで世界の多くの学者でも、また日本の学者でも、いつも誤っている事実は、この閉頭果すなわちイチジクの実の外壁の部、すなわち中部の花もしくは果実を包んでいる内嚢壁の部を、花托(receptacle)もしくは総花托(common receptacle)だとしていることである。これはじつに思わざるのはなはだしきもので、この部は花托でも何んでもなく、これはそれを正直にいえば単に変形せる花軸である。その花托は内部の小花にこそあれ(上に書いたように)他の場所にある理屈がない。小花にも花托があり、さらにその小梗下の肉壁にも花托があるということになると、畢竟二重に花托が存在している結論となる。そうでないのか、考えてみればすぐ判ることだ。



イチジクの別名として九州地方にはトウガキ(唐柿)の方言がある。これはその形が円くて味が甘いからそう呼んだものだ。その果の内部に小花が填充しているのである。

古人がこれを無花果と名づけたのは、その果はあるが外観いっこうに花らしいものが見えぬので、それで実際に花のないものだと思って無花果と書いたので、この無花果の字面は明の汪頴の『食物本草』に初めて出ている。そしてこの果はじつは擬果すなわち偽果であって、本当の果実でない事実は素人には分るまいが学者にはよく分っている。

日本にはアケビが二つある。植物界では一つをアケビ、一つをミツバアケビといって分けてあるが、アケビはじつのところこの両方の総名である。 かのアケビのバスケットはミツバアケビの株元から延び出て地面へ這った長い蔓を採ってつくられる。普通のアケビにはこの蔓が出ない。 ミツバアケビの実の皮は鮮紫色ですこぶる美しいが、普通のアケビの実の皮はそれほど美しくはない。熟したアケビの実の皮は厚ぼったいものである。中の肉身を採った残りの皮を油でイタメ味を付けて食用にすることがあるが、なかなか風雅なものである。




ちょうど職場でお昼休憩のときに読んでいたのですが、”スイカの種を食べる”というところを見て、
いい機会だから職場の中国人のおばちゃんに聞いてみたところ、「食べる食べる!」という返答をいただきました。

でもスイカをパクパク食べてその種を使うのではなくて、種だけ売っているものを買って、それを調理して食べるのだそうです。(洗ったり、乾かしたりがめんどうだそう)
その方は砂糖やバターと一緒に炒ってデザート感覚で食べるそうで、おもしろいなぁと思いました。


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植物知識 (牧野 富太郎)

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花は、率直にいえば生殖器である。

すなわち花は誠に美麗で、且つ趣味に富んだ生殖器であって、動物の醜い生殖器とは雲泥の差があり、とても比べものにはならない。

花は、種子を生ずるために存在している器官である。もし種子を生ずる必要がなかったならば、花はまったく無用の長物で、植物の上には現れなかったであろう。
ゆえに植物には花のないものはなく、もしも花がなければ、花に代わるべき器官があって生殖を司っている。(ただし最も下等なバクテリアのようなものは、体が分裂して繁殖する。)

種子を保護しているものが、果実

動物が子孫を継ぐべき子供のために、その全生涯を捧げていることは蝉の例でもよくわかる。暑い夏に鳴きつづけている蝉は雄蝉であって、一生懸命に雌蝉を呼んでいるのである。うまくランデブーすれば、雄蝉は莞爾として死出の旅路へと急ぎ、憐れにも木から落ちて死骸を地に曝し、蟻の餌となる。 しかし雌蝉は卵を生むまでは生き残るが、卵を生むが最後、雄蝉の後を追って死んでゆく。いわゆる蝉と生まれて地上に出でては、まったく生殖のために全力を打ち込んだわけだ。

われらが花を見るのは、植物学者以外は、この花の真目的を嘆美するのではなくて、多くは、ただその表面に現れている美を賞観して楽しんでいるにすぎない。花に言わすれば、誠に迷惑至極と歎つであろう。花のために、一掬の涙があってもよいではないか。

日本に作っている芍薬は、中国から伝わったものであろう。今は広く国内に培養せられ、その花が美麗だから衆人に愛せられる。中国では人に別れる時、この花を贈る習慣がある。つまり離別を惜しむ記念にするのであろう。

来、水仙は昔中国から日本へ渡ったものだが、しかし水仙の本国はけっして中国ではなく、大昔遠く南欧の地中海地方の原産地からついに中国に来り、そして中国から日本へ来たものだ。中国ではこの草が海辺を好んでよく育つというので、それで水仙と名づけたのである。仙は仙人の仙で、この草を俗を脱している仙人に擬えたものでもあろうか。

水仙には絶えて実を結ばないこと、かのヒガンバナ、あるいはシャガと同様である。けれども球根で繁殖するから、実を結んでくれなくっても、いっこうになんらの不自由はない。そうしてみると、水仙の花はむだに咲いているから、もったいないことである。ちょうど、子を生まない女の人と同じだ。

Iris は虹の意で、それは属中多くの花が美麗ないろいろの色に咲くから、これを虹にたとえたものだ。

昔は紫の色はみな紫根で染めた。これがすなわち、いわゆる紫根染めである。今はアニリン染料に圧倒せられて、紫根染めを見ることはきわめてまれとなっている。私は先年、秋田県の花輪町の染め物屋に頼んで、絹地にこの紫根染めをしてもらったが、なかなかゆかしい地色

日本にはスミレの品種が実に百種ほど(変種を入れるとこれ以上)もあって、これがみなスミレ属 Viola に属する。これによってこれを観れば、日本は実にスミレ品種では世界の一等国といってよい。

今日ではたいていのスミレ類は果実が稔らない。そして花の済んだ後に、微小なる閉鎖花がしきりに生じて自家受精をなし、能く果実ができる特性がある。

パンジーはスミレ属の一種で、三色スミレと呼ばれる。すなわち、一花に三つの色があるというのである。

いったい日本人は花の香いに冷淡で、あまり興味を惹かないようだが、西洋人と中国人とはこれに反して非常に花香を尊重する。かの素馨〔ジャスミン〕などは大いに中国人に好かれる花の一つで、市場で売っており、薔薇の玫瑰(日本の学者はハマナシ、すなわち誤っていうハマナスを玫瑰としていれど、それはむろん誤りである)も同国人に貴ばれ、その花に佳香があるので茶に入れられる。ゆえに Tea rose の名がある。

ヒマワリは一名ヒグルマ、一名ニチリンソウ、一名ヒュウガアオイと呼ばれ、アメリカ合衆国の原産であるが、はやくに広く世界に広まり、諸国で栽培せられている。そしてわが邦へはけだし、昔中国からそれを伝えたものであろう

世人は一般に、ヒマワリの花が日に向こうて回るということを信じているが、それはまったく誤りであった。

ヒマワリの姉妹品にキクイモがあって同属に列する。その学名を Helianthus tuberosus L.(この種名は塊茎を有する意)と称し、俗に Girasole または Jerusalem artichoke と呼び、やはりアメリカ合衆国ならびにカナダがその原産地である。地中にジャガイモ(馬鈴薯というは大間違い)のような塊茎が生じて食用になるのだが、それにまったく澱粉はなく、ただイヌリン(ゴボウと同様)があるのみである。味は淡白であって美味くないから、だれも食料として歓迎しない。しかれども方法をもってすれば、砂糖が製せられるから捨てたものではない。

ユリの諸種はみな宿根草である。地下に鱗茎(俗にいう球根)があって、これが生命の源となっている。すなわち茎葉は枯れても、この部はいつまでも生きていて死なない。 鱗茎は白色、あるいは黄色の鱗片が相重なって成っているが、この鱗片は実は葉の変形したものである。そして地中で養分を貯えている役目をしているから、それで多肉となり、多量の澱粉を含んでいる御蔵をなしているが、それを人が食用とするのである。
鱗片が相擁して塊り、球をなしているその球の下に叢生して鬚状をなしているものが、ユリの本当の根である。

たくさんあるユリの種類の中で、最もふつうで人に知られているものが、オニユリである。これは中国にも産し、巻丹の名がある。それは花蓋片が反巻し、且つ丹いからである。このオニユリの球根、すなわち鱗茎は白色で食用になるのであるが、少しく苦味がある。
ヤマユリの球根は、食用として上乗なものである。ゆえに古より、料理ユリの名がある。このヤマユリは日本の特産で、中国にはないから、したがって中国名はない。

テッポウユリは沖繩方面の原産で、筒の形をした純白の花が横向きに咲き、香気が高い。このユリを筑前〔福岡県北東部〕では、タカサゴと呼ぶことが書物に出ている。そしてこのテッポウユリは、輸出ユリとして著名なもので、その球根が大量に外国に出て行く。

スカシユリは、ふつうに栽培して花を咲かせていて、その花色には赤、黄、樺〔赤みを帯びた黄色〕などがある。花は上向きに咲き、花蓋片のもとの方がたがいに透いているので、スカシユリの名がある。

輸出ユリとしては日本が第一で、年々たくさんな球根が海外へ出ていた
その輸出ユリの第一はヤマユリ、次がテッポウユリ、次がカノコユリという順序だろう。

ハナショウブは世界の Iris 属中の王様で、これがわが邦の特産植物ときているから、大いに鼻を高くしてよい。

このドクダミははなはだ抜き去り難く、したがって根絶せしめることはなかなか容易でなく、抜いても抜いても後から生え出るのである。

花の中の子房が花後に成熟して実になったものは、果実そのものの本体で、すなわち正果実である。 ウメ、モモ、ケシ、ダイコン、エンドウ、ソラマメ、トウモロコシ、イネ、ムギ、ソバ、クリ、クヌギ、ならびにチャの実などがそれである。
また、果実には他の器官が子房と合体し、共同で一の果実をなしているものもある。すなわちリンゴ、ナシ、キュウリ、カボチャ、メロンなどがそれである。 また、他の器官が主部となって果実をなしているものもあって、そんな場合は、これを擬果とも偽果とも称える。すなわちオランダイチゴ、ヘビイチゴ、イチジク、ノイバラの実などがそれである。

果実の食用となる部分は、果実の種類によってかならずしも一様ではない。モモ、アンズなどは植物学上でいうところの中果皮の部を食用とし、リンゴ、ナシなどは実を合成せる花托部を食しており、ミカンは果内の毛を食し、バナナは果皮を食し、イチジクは変形せる花軸部を食用に供している。

リンゴの果実は、これを縦に割ったり横に切ったりして見れば、よくその内部の様子がわかるから、そうして検して見るがよい。 その中央部に五室に分かれた部分があって、その各室内には二個ずつの褐色な種子が並んでいる。そしてその外側に区切りがあって、それが見られる。すなわちこの区切りを界としてその内部が真の果実であって、この果実部はあえてだれも食わなく捨てるところである。そしてこの区切りと最外の外皮のところまでの間が人の食する部分であるが、この部分は実は本当の果実(中心部をなせる)へ癒合した付属物で、これは杯状をなした花托(すなわち花の梗の頂部)であって、それが厚い肉部となっているのである。

これで見ると、このリンゴの実は本当の果実は食われなく、そしてただそのつきものの変形せる花托、すなわち花梗の末端を食っている

元来リンゴは林檎(和リンゴ)の音であるから本当のリンゴをいう場合は何もいうことはないが、今日のように西洋リンゴ(トウリンゴ)を単にリンゴと呼ぶのは、実は当を得たものではないことを知っていなければならない。

ミカンは、その毛の中の汁を味わっている、と聞かされるとみな驚いてしまうだろうが、実際はそうであるからおもしろい。もし万一ミカンの実の中に毛が生えなかったならば、ミカンは食えぬ果実としてだれもそれを一顧もしなかったであろうが、幸いにも果中に毛が生えたばっかりに、ここに上等果実として食用果実界に君臨しているのである。
いずれも甘汁もしくは酸汁を含んでいる毛がその食用源をなしているのである。

ミカン類の果実を剥いて見ると、表面の皮がまず容易にとれる。その中には俗にいうミカンの嚢が輪列していて、これを離せば個々に分かれる。そしてその嚢の中に汁を含んだ膨大せる毛と種子とがあって、その毛はその嚢の外方の壁面から生じており、その種子は内方の底から生じている。

果実としてのバナナは元来そのいずれの部分を食しているかというと、実はその果実の皮を食しているので、これはけっして嘘の皮ではなく本当の皮である。もしもバナナにこの多肉質をなした皮がなかったならば、バナナは果実としてなんの役にも立たないものである。

バナナを食うときはだれでもまずその外皮を剥ぎ取り、その内部の肉、それはクリーム色をした香いのよい肉、を食する。そしてこの皮と肉とは、これは共にバナナの皮であるが、皮のように剥げる皮は実はその外果皮で、これは繊維質であるから、それが細胞質の肉部すなわち中果皮内果皮から容易に剥ぎ取れるわけだ。この繊維質部は食用にならぬが、食用になるのはその次にある細胞質の部のみで、これが前記のとおり中果皮と内果皮とである。

元来このバナナが正しい形状を保っていたなら、こんな食える肉はできずに繊維質の硬い果皮のみと種子とが発達するわけだけれど、それがおそろしく変形して厚い多肉部が生じ種子はまったく不熟に帰して、ただ果実の中央に軟らかい黒ずんだ痕跡を存しているのみですんでいる。すなわちこれは果実の常態ではなくまったく一の変態で、つまり一の不具である。すなわちこれが不具であってくれたばっかりに、吾人はこの珍果を口にする幸運に遭っているのである。要するに、われらはバナナの中果皮、内果皮なる皮を食って喜んでいるわけだ。

中国名の芭蕉は一に甘蕉ともいい、実はバナナ、すなわちその果実の味の甘いバナナ類を総称した名である。ゆえにバナナを芭蕉といい、甘蕉といってもよいわけだ。

オランダイチゴは今日市場では、単にイチゴと呼んで通じている

このオランダイチゴ、すなわちストローベリの実の食うところは、その花托が放大して赤色を呈し味が甘く、香いがあって軟らかい肉質をなしている部分である。人々はその花托すなわち茎の頂部、換言すればその茎を食しているのであって、本当の果実を食っているのではない(いっしょに口には入って行けども)。

されば本当の果実とはどこをいっているかというと、それはその放大せる花托面に散布して付着している細小な粒状そのもの(図の右の方に描いてあるもの)である。 ゆえにオランダイチゴは食用部と果実とはまったく別で、ただその果実は花托面に載っているにすぎない。

ヘビイチゴの実には甘味がないからだれも食わない。いやな名がついていれど、もとよりなんら毒はない。ヘビイチゴとは野原で蛇の食う苺の意だ。


植物に取り囲まれているわれらは、このうえもない幸福である。こんな罪のない、且つ美点に満ちた植物は、他の何物にも比することのできない天然の賜である。実にこれは人生の至宝であると言っても、けっして溢言ではないのであろう。

植物の研究が進むと、ために人間社会を幸福に導き人生を厚くする。植物を資源とする工業の勃興は国の富を殖やし、したがって国民の生活を裕かにする。ゆえに国民が植物に関心を持つと持たぬとによって、国の貧富、したがって人間の貧富が分かれるわけだ。貧すれば、その間に罪悪が生じて世が乱れるが、富めば、余裕を生じて人間同士の礼節も敦くなり、風俗も良くなり、国民の幸福を招致することになる。想えば植物の徳大なるかなであると言うべきである。

人間は生きている間が花

また私は世人が植物に趣味を持てば次の三徳があることを主張する。すなわち、第一に、人間の本性が良くなる。野に山にわれらの周囲に咲き誇る草花を見れば、何人もあの優しい自然の美に打たれて、和やかな心にならぬものはあるまい。氷が春風に融けるごとくに、怒りもさっそくに解けるであろう。またあわせて心が詩的にもなり美的にもなる。 第二に、健康になる。植物に趣味を持って山野に草や木をさがし求むれば、自然に戸外の運動が足るようになる。あわせて日光浴ができ、紫外線に触れ、したがって知らず識らずの間に健康が増進せられる。 第三に、人生に寂寞を感じない。もしも世界中の人間がわれに背くとも、あえて悲観するには及ばぬ。わが周囲にある草木は永遠の恋人としてわれに優しく笑みかけるのであろう。 惟うに、私はようこそ生まれつき植物に愛を持って来たものだと、またと得がたいその幸福を天に感謝している次第である。







人間は生きている間が花、という言葉がとても印象に残りました。
生まれる前はつぼみで、死んだら枯れる。たしかにそうなのかもしれないのですが、
死んでからも花であれるのであれば、花でありたいなぁ、なんて贅沢なことを思いました。
でもそう在れれば嬉しいです。

花は生殖器だなんて考えたことがなかったので、今後ちょっと花を見る目が変わりそうです。

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Hiro

Author:Hiro
読んだ本の記録。忘れたくない言葉。

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